なりたち(戦後)その4

変革と成長

1985年9月22日のプラザ合意以降景気が回復し、日本はいわゆるバブル景気を迎えた。戦後の災禍と資金難を経験していた西急は、1980年代後半からの株や土地への投機熱に乗じて不採算資産を売却することで将来に備えた。休車として留置されていた吊掛駆動車が一掃されたのもこの時期である。やがて1990年代に入りバブル景気は終焉を迎えた。鉄道事業では、駅設備の更新・連続立体交差事業・相互直通運転延伸・新型車両投入などを実施し、業務の合理化および効率化を推進して企業体質強化に努めた時期である。

桜通線相互直通運転への動き

1972年3月1日の都市交通審議会答申第14号において、「名古屋圏における旅客輸送力の整備増強に関する基本的計画について」のうち、1985年を目標として都市交通の主要幹線として整備すべき路線のひとつに名古屋市高速度鉄道第6号線(以下桜通線)が加えられた。これは、都市を貫通し住宅地として開発の著しい西部および東南部を結ぶ路線であり、ラッシュ時の乗車率が200%を超える東山線のバイパス路線としての性格も有することとなった。

この答申における経由地は、七宝・稲葉地・中村公園・名古屋・桜通本町・高岳・今池・御器所・新瑞橋・鶴里・鳴海・豊明の計画としており、工事施工の際は可能な限り相互直通運転を図るようにとの条件が盛り込まれた。このうち七宝~名古屋間は西急が既に路線を有しており、相互直通運転が実現すれば、名古屋市としても特に人口増加の著しい南東部の建設に注力できると考え、相互乗り入れ協定締結に向けた協議が始められた。

西急としても決して悪い話ではなく、協議は順調に進んでいった。その後基本協定が締結され、軌間は1,435mm・架空線直流1,500V・車両連結面間20,000mmという西急の規格が採用されることになった。ただし、車庫および検修施設の用地確保は西急が融通することとなった。

相互直通運転に向け最大の問題の一つは名古屋駅であった。当初は西急名古屋駅を地下二層構造として国鉄名古屋駅を横断する計画だったが、既存の各地下線および地下街への干渉など建設が非常に困難であることが判明した。西急名古屋駅の現有プラットホームの深度8.5mに対して、第6号線は国鉄名古屋駅・地下街・共同溝の下を通過するため深度20m前後となることが想定された。本線からの勾配も考慮した結果、西急中村駅での分岐とし、そこから新線を建設して相応の深度で国鉄名古屋駅と交差する計画で桜通線名古屋駅が設置されることとなった。

これにより「西急名古屋駅を発着する列車が激減して閑散としてしまう」との懸念が当初からあったが、通過駅化が不可能である以上、本数の減少は不可避であることから、駅施設の有効活用に向けた検討が進められていくこととなった。

かくして、第6号線は桜通線の愛称を付されて1989年9月10日に中村~今池間が開業、同日から西急本線七宝~今池間での相互直通運転が開始された。

半導体の技術革新とともに

1980年代に入り、半導体産業とマイクロコンピュータの発達によって小型コンピュータの価格が低下したことにより、コンピュータによる業務の効率化が促進されていく。

1980年3月から4月にかけて、まず千里線で列車運行管理システム(PTC)が導入され、翌1981年3月から4月にかけて全線で稼働が開始した。乗務員および車両の運用も一括管理され、業務の大幅な合理化に貢献している。あわせてPTCと連動した自動案内放送装置が梅田駅に導入され、実用試験が始まっている。

主要駅では1985年12月1日からビデオテックス情報端末「テレスポット」がサービスを開始、特急列車の指定席予約状況をはじめ宿泊施設や観光情報などを提供していた。インターネットの普及など時代の流れにより端末は変化していったが、この頃からネットワークと情報端末を利用した情報提供が開始された。

運輸事業における変革

鉄道事業では1986年に、従来の抵抗制御の発展型ともいえる界磁添加励磁制御を採用した3000系電車が登場し、省エネルギー化が図られたことから、従来の電車へも展開されることとなった。また、桜通線相互直通運転向け新型車両として西急では初めてとなるVVVFインバータ制御を採用した7000系先行量産車が登場、八日市以東での試運転が開始されている。

バス事業でも名古屋~飯田線の開設を皮切りに高速バスの運行を開始、京阪神発着路線も順次開設されていく。

乗車券についても変化があり、1987年4月1日に特急券の購入限定ながら金額式プリペイドカードと特急回数券カードの発売が開始された。本来であれば、乗車券の自動券売機からプリペイドカード対応とするところではあったが、全線への展開となると大規模な交換が必要になるため、まず更新および新設が必要となった特急券券売機に先行導入された。同年10月1日に各駅に1台プリペイドカード対応乗車券自動券売機の設置が完了し、本格的な運用が開始された。

「特別急行」の終焉

国鉄の度重なる運賃・料金の値上げによりシェアが回復した名神特急であるが、国鉄の新快速の台頭は無視できない状態となっていた。

1986年11月1日に実施された国鉄ダイヤ改正は、その後の分割民営化を前提とした白紙ダイヤ改正であり、都市間輸送を重視するダイヤとなった。1987年4月1日に新設される西日本旅客鉄道(以下JR西日本)が競合相手となるのは必然であり、西急でも抜本的なダイヤ改正が実施されることとなった。しかし、白紙改正は急遽決定されたわけではなく、市場調査により名神特急の運用見直しの要望が増えてきており、その実現に向け1985年頃から様々な検討がなされていたことによる。

1987年4月1日のダイヤ改正では、昼間時間帯は毎時2本、朝夕は毎時3本の運転となり、競合相手である西日本旅客鉄道(以下JR西日本)を意識したダイヤ改正となった。また、同日、金額式プリペイドカードと特急回数券カードの発売を開始、特急券券売機での引き換えが可能となった。

上記のようにサービスの適正化が図られた結果、側面のエンブレムに添えられた”Super Express”の英字表記は「特別急行の名はおよそふさわしくない」との内部意見があり、”Intercity Shuttle”に変更されることとなった。これにより、「特別急行」としての名神特急は終焉を迎えることとなった。