新京阪鉄道
設立
1910年4月15日に天満橋~五条間の電気鉄道を開通させた京阪は、淀川右岸への進出や企業防衛などを目的に、野江~吹田~山崎~淀間30.4kmと山崎~四条大宮間15.1kmの淀川西岸支線に関する軌道敷設特許申請を行い、1919年7月21日に特許を取得した。野江と淀で京阪本線に合流する計画であったが、付帯命令として鉄道省から「大阪側の起点を天満橋以外にも設置するように」との条件が付された。
大阪側の起点を模索していた京阪は、1919年に決定された鉄道省城東線の高架化および電化工事により発生する旧線用地を取得することで梅田へ乗り入れる計画とし、1920年に城東線払下願書を鉄道省に提出した。同年5月20日、鉄道省と京阪は、「城東線払下許可に関する覚書」を交わし、その4日後に淀川西岸支線の計画区間を葉村町~桜ノ宮~赤川~上新庄~高槻~四条大宮間に変更する旨申請している。
だが、1920年7月に衆議院における答弁の中で「城東線払下許可に関する覚書」の存在が明らかにされ、大阪市はこの払下案を問題視して京阪と鉄道省への反発を強め、後に大阪市長への諮問が行われる事態となっている。その後、野江~淀間と山崎~四条大宮間の軌道敷設特許を葉村町~赤川~四条大宮間に変更し、あわせて軌道から高速運転に有利な地方鉄道に変更する申請が行われ、192年4月25日に認可された。これにより、淀川西岸支線建設用の別会社として1922年6月28日に新京阪鉄道(以下新京阪)が設立された。
梅田進出計画
新京阪は設立後に京阪から建設免許の一部を譲り受け、新京阪が四条大宮~上新庄~赤川間を、京阪が森小路~赤川~天神橋間と赤川~葉村町間の建設を担当することとなった。しかし、梅田延伸の計画が構想されて以降、城東線の高架化計画は進捗しておらず、別の大阪側ターミナルを模索する必要があった。
京阪は淡路~天神橋間の免許線を持っていた北大阪電気鉄道と接触を図り、後に北大阪電気鉄道の株の過半数を抑えて実権を掌握し、1923年4月1日に北大阪電気鉄道は鉄道事業を新京阪に譲渡している。同年6月18日には計画線との連絡線となる淡路~上新庄間の敷設免許を取得、その後1925年10月15日の天神橋~淡路間開業により、新京阪は天神橋を当面の大阪側の起点とし、梅田進出の機会を窺うこととした。天神橋駅は当初ターミナルビルを建設する予定だったが、将来の梅田延伸を見込んで簡素な駅舎が建築された。
一方、総合大阪都市計画を作成していた大阪市は、1928年1月に京阪に対して高速鉄道計画線との交差を理由に都島付近の新線計画を見直すよう要請している。この要請を受けて、京阪は同年3月に天神橋~葉村町間1.3kmと、蒲生信号所~沢上江間1.6kmの免許を申請し、京阪の乗入線を野江~沢上江~葉村町~角田町、新京阪を天神橋~葉村町~角田町に整理して路線を短縮し工費の圧縮を図った。同年8月7日に新京阪は天神橋~角田町間の免許を取得、梅田進出の足がかりを得たことで新京阪は上新庄~赤川間の免許取消を申請している。
京阪については、野江~角田町間の免許申請を1930年に取り下げ、森小路~赤川~天神橋間の城北線で梅田進出計画として残ることとなった。しかし、梅田線建設の為に支払い続けていた城東線の工事費の残額を鉄道省が負担することとなり、京阪は梅田進出を断念せざるを得ず、新京阪との総合駅計画の夢は潰えた。だが、1932年2月10日に蒲生駅の城東線京橋駅付近への移転により梅田への連絡手段を確保したことから城北線の必要性は薄れ、1942年9月26日に城北線の免許は失効している。
開業
大阪側の起点決定で混乱はあったが、新京阪の免許線は順次着工され、1928年1月16日に淡路~高槻町間が開業、架線電圧が直流1,500Vに昇圧された。この時に投入された車両が、東洋一の電車といわれたP-6ことデイ100形である。同年11月1日には高槻町~西院間、同11月9日には桂~嵐山間が開業したことで全通した。京都御所で執り行われる昭和天皇即位大典に間に合わせるため、 当初地下駅の予定だった西院駅は、暫定的に地上駅で開業している。