なりたち(戦前)その2

阪神電気鉄道 岩屋尼崎間増設線

伝法線として開業

阪神電気鉄道(以下阪神)では、阪神本線の高速化と輸送力増強、競合電鉄会社への対抗手段として、1910年1月20日と26日に尼崎~伝法町~西野田兼平町間と神戸市布引町~尼崎間の軌道敷設特許を申請、神戸市布引町~尼崎間については同年8月15日に却下され、尼崎~伝法町~西野田兼平町間のみ1911年8月25日に軌道敷設特許を取得した。この特許は1912年3月11日に兼平町~船津橋間の延長敷設許可を申請したが、後に千鳥橋~兼平町間が大阪市電の計画線と重複することになり、1916年7月11日に同部分の短縮を決定、1917年1月20日に尼崎~千鳥橋間への変更願を提出、同年5月14日に認可、1919年10月3日より工事が開始された。

1924年1月20日に大物~伝法間が伝法線として開業、同年8月1日に伝法~千鳥橋間が開業、1928年12月28日に大物~尼崎間が開業している。

伝法線の梅田乗り入れの計画は幾度か変更があった。はじめに、1918年1月30日に四貫島~梅田間の増設軌道敷設特許を申請、特許を取得している。同年7月に千鳥橋経由から伝法~福島~梅田間に申請を変更、1920年に軌道敷設特許を取得したが、1921年7月14日に工事施行認可申請期限延期を申請している。その後、再び千鳥橋経由に変更され、1929年4月1日に千鳥橋~出入橋間が開業している。聖天川を埋め立てて建設され、野田駅で本線をくぐり、西成線福島駅の西方で西成線をまたいで、地上駅の出入橋駅に接続する路線である。

残る伝法線出入橋~梅田間は本線と合流させる計画だったが、大阪駅前土地区画整理事業に伴う梅田駅の地下化が検討されており、事業計画の進捗を待っていた。だが、この区間の進展は予想外の方向に進んでいくこととなる。

新京阪との直通計画

阪神は伝法線とは別に1921年1月28日に大物~大和田間を短絡する尼崎~野田間の増設線を申請、1927年4月23日に尼崎市別所村~西野田茶園町間の軌道敷設特許を取得している。しかし、この区間は大阪市の都市計画との関係で特許が大幅に遅れた上、伝法線千鳥橋~出入橋間の軌道工事が開始されたこともあって必要性は薄れていた。尼崎~梅田間の速達列車については、伝法線経由にすれば支障がないからである。

しかし、1926年12月11日と12日に新京阪稗島線の免許線譲渡契約と神戸~京都間での直通契約が締結されたことで事態は急転する。路線の交錯回避と新京阪の乗り入れを想定して、尼崎市別所村~西野田茶園町間の特許線を増設線として利用し、本線の野田~梅田間を改良し、現行の本線を千鳥橋経由に変更することとなった。

1929年4月1日の伝法線千鳥橋~出入橋間開業をもって、伝法線尼崎~千鳥橋~出入橋間が本線となり、本線尼崎~姫島~出入橋間が増設線に変更となった。その後しばらくして、本特許の尼崎市別所村~西野田茶園町間の軌道工事が開始されている。

増設線建設までの流れ

阪神間では、灘循環電気軌道が1912年7月25日に神戸~岡本~西宮間の軌道敷設特許を取得、この特許線を狙って、阪神と箕面有馬電気軌道(以下箕有電車)が衝突し始める。

当初、灘循環電気軌道は箕有電車よりも株価の高い阪神との合併を望んでいたが、阪神との交渉は不調に終わり、箕有電車に協力していくこととなる。その箕有電車は1913年に十三~西宮間の軌道敷設特許を取得、株式の引き受けが進まずに会社設立の目処が立っていない灘循環電気軌道に対して北浜銀行を介して援助を行った。これにより灘循環電気軌道は設立されたものの、1917年2月に軌道敷設権が箕有電車に譲渡されたことにより会社は解散される。その後、1918年2月4日に箕有電車は阪神急行電鉄(以下阪急)へ商号を変更、かねてから取得していた特許線と併せて1920年7月16日に開業したのが、現在の阪急神戸本線である。

阪神もこの動向を黙視していたわけではなかった。1917年12月28日に、再び増設線の実現のために西灘村岩屋~尼崎市別所村間で線路増設の特許を出願、1919年11月19日に西灘村岩屋~尼崎市別所村間19.0kmの軌道敷設特許を取得している。ただし、付帯命令として、「終点を岩屋に置くことは乗客に不便であるから適当なる方法により市内の中心と結び付けるように」との条件が付された。

この命令を受けて、阪神は岩屋で本線と合流させて三宮を神戸側のターミナルとする計画とした。岩屋~三宮間の地上専用軌道化を1918年12月27日の取締役会で決定し、1919年10月に神戸市議会に上程したが却下されてしまう。1924年8月28日に高架線の変更案で上程したが、この変更案も神戸市議会から難色を示された。その後、神戸市区改正委員会の「市内を通過する鉄道は地下線であれば問題ない」との答申を受けて、1927年4月、新阪神国道の工事に併せて国道下に地下線を建設する計画に変更している。

京都進出構想

さて、阪神には開業直後から京都進出構想があり、京阪および新京阪との数度にわたる接触も含めて記述しておく。大阪市電乗り入れ計画の際にも、1908年に私鉄各社との共用契約が検討される過程で、京阪との合併計画が当時の大阪市議会で取り上げられていたが、この計画は共用契約の解除とともに立ち消えとなっている。

その後、阪神は自社で京都進出を図るべく、1913年2月の北大阪線着工とともに、同年3月に北大阪線本庄~城北~吹田~茨木~高槻~大山崎~向日~桂~壬生に至る淀川西岸にルートをとった京都延長線の特許を申請している。当局からの却下を回避するべく経過地を修正して再出願したり、経営陣と沿線住民が一体となって請願運動を行ったりするなど、精力的な活動を行っていたが、1914年7月に却下されている。

京都延長線の特許が却下されてからしばらくして、再び京阪との合併計画が浮上する。1917年には仮調印まで行われたものの、取締役会で承認が得られず、またも立ち消えとなっている。このように阪神が京都延長線の実現を急いだ背景には、箕面有馬電気軌道が梅田~野江間4.0kmの特許を1909年に取得し、京阪との連絡を図ろうと計画していたことによる。

新京阪との直通計画再び

阪神と京阪の合併に向けた動きは落ち着いたかに見えたが、今度は新京阪で阪神との相互直通運転計画が持ち上がった。新京阪が1923年に、十三~阪神稗島(姫島)間3.2kmの免許を取得したのである。しかし、大阪市の都市計画事業に阻まれ、新京阪は自力での建設を断念、1926年12月11日に阪神との間で当該区間の免許権譲渡契約が締結され、同日淡路~十三~姫島間での相互乗り入れ計画が、翌12日には神戸~京都間での直通計画が締結している。同年4月には京阪でもこの譲渡案が議決、1928年2月に鉄道省から認可され、2月12日に再び神戸~京都間の相互直通運転の契約が結ばれている。だが、この頃には紆余曲折がありながらも新京阪の梅田進出計画が進んでおり、また阪神でも伝法線千鳥橋~出入橋間の軌道工事が既に始まっていたことから、「大阪市と協議し梅田で接続する事が妥当」との意見が両社で多数を占めていた。

梅田乗り入れ計画については、京阪については1920年の城東線払下げによる京阪梅田線構想が発端であり、阪神については1919年に大阪市の都市計画事業策定の際、1921年2月16日に大阪市に対し「市営地下鉄線と阪神との連絡を十分配慮するよう」に要望書を提出したことが発端である。

阪神の要望を受け、1926年11月に大阪市が大阪駅前整理計画協議会に提出した原案によると、阪神本線を曽根崎まで延長して市営地下鉄線に連絡させる計画となり、阪神も基本的にこの原案を了承している。ただ、同年12月に神戸~京都間での相互直通運転契約を締結したことから、新京阪との連絡線についても考慮する必要があった。その後、新京阪と大阪市で進められていた天神橋~角田町間の延伸協議に阪神も参加し、連絡線建設についての協議が盛り込まれることとなった。

連絡線は地下線とし、阪神の地下線は本線2本に加え増設線用2本の建設が認められたが、地下線の阪神本線梅田駅の容量逼迫、駅構造の御堂筋線への影響などが懸念された。協議を重ねた結果、増設線の阪神梅田駅は、京阪が角田町に所有していた京阪梅田線の梅田駅予定地を阪神と新京阪の共同管理で梅田総合駅としてはどうかと大阪市から提案され、阪神と新京阪もこれを了承した。これに伴い、阪神は出入橋~角田町間の延伸特許を申請している。

神戸のターミナル問題

1926年12月11日と12日に新京阪稗島線の免許線譲渡契約と神戸~京都間での直通契約が締結されたことから、増設線については従来の併用軌道区間下に地下線を建設して別線とする計画に変更された。直通相手の新京阪は架線電圧直流1,500Vで建設中であり、本線と新京阪の車両規格が明らかに異なることから地下線を分けた方が合理的であると判断したことによる。そして、増設線は当面直流600Vとするが、いずれは地方鉄道に変更した上で直流1,500Vに昇圧して直通運転に対応する計画となった。

この別線は、春日野道駅から西へしばらく進むと北西に進んで日暮通・旭通を通過していた従来の路線を線形改良し、吾妻通・雲井通と直進して三宮(神戸雲井通)駅に至る路線である。神戸市議会で「地下線を一本化できないのか」という意見も上がったが、神戸市当局での調査および検討の結果、1930年6月6日に軌道敷設特許を取得している。

どちらの三宮駅も4面3線の地下駅とし、隣接させて相互連絡をする三宮総合駅構想が計画された。まず、1931年2月16日から本線の三宮~岩屋間の軌道工事に着手、1933年6月17日に完成している。本線を地上線から地下線に切り替えた後、増設線の三宮~岩屋間の軌道工事に着手、1935年6月20日に完成した。その後、本線については1936年3月18日に元町まで路線が延伸されている。

増設線完成までの長い道のり

増設線岩屋~尼崎間の軌道敷設工事でまず着手されたのは、岩屋~甲子園三番町間である。岩屋~西宮間については、1919年5月8日に本線の大石~住吉間の軌道変更を申請、同年12月1日に工事施工認可を得た本線併用軌道区間の専用軌道化と並行して建設されることとなった。しかし、阪急神戸線の開通や西宮市中心部の高架化要求、住吉川付近~精道村間の工法変更などがあり、本線の専用軌道化も含めて工事は開始されず、工事開始は1926年1月9日と遅れてしまう。増設線岩屋~西宮間の工事が完了したのは、本線の高架化完成から1年遅れた1930年7月10日だった。

増設線甲子園三番町~尼崎間は、1916年に市制施行された尼崎市が検討していた都市計画と協議しながら着手することとなった。尼崎市は、市街地の分断や年々増加する阪神間の道路交通への障害を懸念し、増設線に対してビームスラブ式ラーメン高架橋での路線敷設を阪神に要求、このほか宝塚尼崎電鉄の免許取得や阪神の出資決定などが重なって工事の着工は大幅に遅れ、何度か施工認可の延長を申請している。

工事が開始したのは、宝塚尼崎電鉄の建設が断念され、線路敷を道路敷に変更する為に1929年11月11日に自動車専用道路新設を出願した後の1930年になってからだった。尼崎市の要求にもとづき、蓬川橋梁~左門殿川橋梁間はビームスラブ式ラーメン高架橋で建設されている。西宮~尼崎間が開業したのは1934年5月2日である。

当初の予定では4年で完成と見積もっていた岩屋尼崎間増設線は、その完成までに実に4倍近い15年を要することとなった。開業時点では、岩屋~住吉川橋梁間はビームスラブ式ラーメン高架橋、住吉川橋梁~芦屋川橋梁間は築堤式高架、芦屋川橋梁~今津線架線橋間はビームスラブ式ラーメン高架橋、今津線架線橋~蓬川橋梁間は築堤式高架、蓬川橋梁~野田間はビームスラブ式ラーメン高架橋となっている。

梅田総合駅開業

1928年5月、大阪市は大阪駅前建築敷地造成計画の認可を取得、阪神は本線地下線用に1929年から用地の買収を開始、同年6月17日に本線梅田~曽根崎間延長敷設特許を申請、1930年11月17日に軌道敷設特許を取得した。新京阪は天神橋~角田町間は高架駅であった天神橋から地下線に進入する計画だったが、城東線の高架化により急勾配となるため、天神橋北方から緩勾配で地下線に進入、天神橋駅を地下線に移設することが決定された。

新京阪梅田地下線の敷設免許は、1933年に大阪市の要請に伴う新京阪の天神橋~角田町間の目論見変更と合わせて申請され、阪神は1934年10月3日に梅田~角田町の軌道敷設特許を取得した。これで両社の地下線工事準備が完了、新京阪の天神橋~梅田間は1935年3月から、阪神の梅田延伸区間は1936年11月17日から工事が開始された。

梅田総合駅のターミナルビルは阪神が担当、新京阪は梅田総合駅の地下構造物を担当、同じくして天神橋に駅ビルを建設している。地下連絡線は1938年3月21日に開通、増設線については架線電圧を直流1,500Vに昇圧、岩屋~尼崎~姫島~梅田間が軌道法による軌道から地方鉄道法による地方鉄道に変更されている。