なりたち(戦前)その3

名古屋急行電気鉄道

京阪の大きな夢

京阪神で高速新線が建設されていた1928年6月12日、京阪社長太田光熈を発起人総代とする名古屋急行電気鉄道(以下名急)が、大津市膳所~名古屋市南区尾頭(金山)間の電気鉄道の免許を申請した。申請時の経過地は滋賀県滋賀郡石山村・同栗太郡上田上村・同甲賀郡雲井村・同土山町・三重県鈴鹿郡庄内村・同三重郡日永村・同四日市市・同桑名郡大山田村・愛知県海部郡弥富町である。資本金を4500万円とし90万株に分け、全線複線で軌間は1435mm、直流1500V単線架空式とする申請内容である。会社創立に当たっての創立趣意書で「西は姫路より岡山に、東は豊橋より静岡にむかひ」と大きな夢を語っている。

後に「地方鉄道免許申請に関し追願」として、滋賀県滋賀郡石山町・同栗太郡草津町・同野洲郡野洲町・同蒲生郡市辺村・同神崎郡山上村・三重県員弁郡大泉原村・愛知県海部郡七宝村・同名古屋市中区牧野町と経過地の変更を申請している。終点を名古屋市南区尾頭町から変更している時点で、創立趣意書にあった東進の計画は諦めていたと読み取れるが、残存する史料がないため経緯は不明である。

敷設免許申請時の評価

名急の免許申請に関して、免許線の経過地となる三重県知事は滋賀県知事に対し書面で「事業の遂行能力十分なりと認む」「管内に於ける線路経過地帯の開発並員弁郡北端の貨客をして京阪及名古屋地方へ輸送に対し時間の短縮運賃軽減において頗る便宜となり効果著しきものなりと認む」と回答している。同じく愛知県知事は滋賀県知事に対し書面で「本計画の如き優秀の施設を有する地方鉄道の出現せんことは一般に期待する所にして関係各都市の発展及我国産業の興隆に寄与する所少なからず」と回答している。鉄道省上層部は、東海道本線・関西本線と競合するとして認可に反対の立場を取っていたものの、田中義一内閣総辞職直前の1929年6月29日、当時の小川平吉鉄道相の免許乱発により名急は地方鉄道敷設免許を取得した。

設立に至るまでの過程

敷設免許申請にあたり、京阪の太田光凞は「新京阪本線26マイルに莫大な建設資金を投じた以上、此れを生かす上から云っても、新京阪の線路を高速度として名古屋まで延長することが将来最も有利である」「勿論京阪としては一個の延長線と云ってもよいものであるから、会社が成立すれば、半数以上の株を持つ」と考えていた。

しかしながら、名急設立には各方面から大いに期待が寄せられていた。競願していた京阪神急行電鉄は阪神系であり、その阪神では増設線と新京阪で神戸~京都間の相互直通運転の契約が締結され、梅田総合駅計画が進行し始めた時期である。また、関西高速度電鉄として競願していた発起人は大阪・京都・名古屋の商工会議所議員等で構成されており、名急の実現は、「各地域経済の活性化や振興に資する」との見解で、設立に大きく期待を寄せていたのである。

京阪は「飽くまで京阪間の交通機関は省線を除くの外は、京阪電鉄をしてその枢軸たらしめ、断じて他をして一歩も踏み入れしめないと云う方針を執って来た」が、実情としては、新京阪の建設のために多額の借金を抱えており、京阪と新京阪で合わせて当時にして1億円以上の負債総額に上り、名古屋までの建設はおろか経営自体も危うい状況だった。背に腹は代えられず、京阪の和歌山支店を三重合同電気に売却して内部負債の整理に充当している。

新京阪の負債を起因とした混乱の中、名急設立に向けた資金調達が開始された。1929年10月24日のいわゆる「暗黒の木曜日」を端緒とする世界恐慌のただ中であり、発起人からの出資においても、京阪からの出資はほとんど払い込まれなかった。発起人に名を連ねていた大同電力・旧名古屋鉄道・愛知電気鉄道・碧海電気鉄道をはじめとした中京圏の電力会社および鉄道会社のほか、湖南と湖東を通過することから近江商人の流れを汲む伊藤忠商事・丸紅商店をはじめとした江商系も出資者となっている。また、将来的な阪神との相互直通運転を見込んで、いわゆる阪神財閥の出資もあった。

これにより資金調達の目途はついたものの、京阪が当初予定していた「持株比率半数」は実現されなかった。また、名急の資金調達における出資比率の変化が大きな理由となり、1930年6月17日の臨時株主総会において、先述した財政整理を目的とした京阪と新京阪の合併決議が否決される事態となった。当時、株数74万株に対し京阪の保有株数は約27万株で、株数の1/3を保有していたにもかかわらず、である。「断じて他をして一歩も踏み入れしめないと云う方針」が大きく揺らぐこととなるが、かくして、1930年9月15日、名古屋急行電気鉄道は設立された。

以下は、免許申請時における発起人の一覧である。

  • 太田光凞(京阪電気鉄道社長)
  • 湯淺七佐衛門(新京阪鐵道監査役、湯淺七佐衛門商店)
  • 馬場齊吉(京阪電気鉄道取締役、高野山電気鉄道取締役)
  • 濱崎健吉(京阪電気鉄道監査役)
  • 渡邊嘉一(京阪電気鉄道取締役、東洋電機製造・京阪土地社長、大同電力監査役)
  • 井上周(新京阪鉄道・阪神急行電鉄取締役)
  • 大原孫三郎(京阪電気鉄道取締役、大原財閥)
  • 津村紀陵(京阪電気鉄道監査役、和歌山倉庫銀行頭取)
  • 大野盛郁(京都市参与、京都市水利水道電気軌道各事務所長)
  • 野呂靜(東濃電化社長)
  • 有田邦敬(大阪市助役)
  • 神野金之助(三河水力電気社長、名古屋鉄道・遠州電気鉄道・高野山電気鉄道取締役)
  • 跡田直一(旧名古屋鉄道常務取締役、美濃電気軌道取締役)
  • 兼松凞(濃飛電気・長良川電化社長・東美鉄道取締役)
  • 藍川清成(愛知電気鉄道・碧海電気鉄道社長、大同土地・名古屋土地取締役、東邦電力法律顧問)
  • 富田重助(旧名古屋鉄道社長)
  • 伊藤伝七(三岐鉄道社長)
  • 志水正太郎(愛知電気鉄道・碧海電気鉄道取締役)
  • 田代榮重(愛知電気鉄道・鳴海土地・碧海電気鉄道取締役)
  • 村瀨末一(大同電力取締役兼支配人)
  • 增田次郞(昭和電力社長、大同電力常務取締役・2代目社長)
  • 林安繁(宇治川電気社長)
  • 影山銑三郎(宇治川電気常務取締役・副社長)
  • 山崎主計(宇治川電気取締役兼支配人)
  • 井上秀尭(会社員)
  • 松島寛三郎(新京阪鉄道取締役、新阪神土地監査役)
  • 福澤桃介(大同電力社長)

京都市内の路線

新京阪と名急の連絡線は、当初の計画では京都市内を経由せず、新京阪が免許を保有していた西向日町駅から山科駅に至る路線を建設し、山科駅からは京阪が計画中だった六地蔵線に乗り入れて大津市馬場に至る計画だった。一方の新京阪は、1926年9月27日に京都市の四条通拡幅工事に対して報償金300万円を支払うことにより、京都市議会には秘密裡で、京都市長と西院~四条河原町間の地下線敷設契約を締結していた。名急と新京阪は、これらの計画を一本化し、京都市内の地下線を延長して山科に至る計画に変更しようとしていた。

しかし、新京阪が計画していた四条通直下での貫通の場合、八坂神社や大谷祖廟の境内の通過は容易ではないこと、市の中心部であることから用地買収の費用が嵩むこと、京都市電が既に四条通を走行していること、京阪京津線の処理等を勘案の上、再度連絡線の経路を検討することとなった。

五条通であれば市中心部に近い位置を通過でき、それ程線形を変化させること無く東海道本線の旧線路敷に接続できることから、再度京都市と協議することとなった。四条通の地下線契約露見による市議会での混乱はあったが、京都市街を横断する市電の代替として便宜を図ること、蹴上~山科間の京津国道拡幅工事の一部負担を条件として市議会で正式に了承された。

その後、1928年11月6日に西京極~五条通~髭茶屋追分間で地方鉄道敷設免許を申請、翌年の1929年8月2日に免許を取得している。1930年2月4日に工事施行認可を受け、同年7月から工事に着手して1933年8月31日に西京極~大津市馬場起点が開業、新京阪が大津まで延伸された。これに伴い西京極~西院仮駅の地上線区間は旅客営業を休止、貨物輸送にのみ使用されることとなった。

西京極~大津間では、西院(西大路五条電停と連絡)・大宮(五条大宮電停と連絡)・新京阪京都(烏丸五条電停と連絡)・五条大橋(河原町五条・五条坂電停と連絡)・山科に駅が設置されることとなった。西院駅建設の際には、当初の予定よりも早く京都市電が西大路五条まで開通させている。

この新京阪大津延伸線について、建設にかかる資金調達の社債購入および借入金の保証については、名急の出資者のほか京都財界も関与しており、このことが京阪と新京阪との合併決議が否決される一因となったのである。

大津から湖東をめざして

京阪は事業拡大を目的に琵琶湖進出を計画、1925年2月1日に京津電気軌道を合併し、琵琶湖への足がかりを得た。京阪の進出に危機感を抱いた大津電車軌道と太湖汽船は、京阪に対抗するために1927年1月21日に合併、琵琶湖鉄道汽船となり、同年5月28日には近江八幡~新八日市間に路線を持つ湖南鉄道を合併している。しかし資金力では京阪が優位であり、琵琶湖鉄道汽船は1929年4月11日に京阪に合併されることとなった。この時、汽船部門は太湖汽船へ、鉄道部門は京阪に譲渡されている。その後、名急設立時に旧湖南鉄道線の権利が名急へ譲渡されている。

名急の当初の免許線では、八日市町や中野村から更に南の近江鉄道長谷野駅付近に南八日市停留場を設置する予定だった。この譲渡により、旧湖南鉄道の蒸気線免許と軌間を変更し、馬場起点より30km地点の上平木付近から旧湖南鉄道市辺駅に接続、湖南鉄道の未成線である御園村沖野ヶ原~山上村間の免許を利用して、旧湖南鉄道山上駅から馬場起点より47km地点永源寺前付近で合流させることが可能となり、かつ、八幡町と八日市町の中心への連絡が可能となった。しかし、陸軍からの要請で、八日市飛行場への兵員および貨物輸送のために近江八幡~飛行場間は三線軌条での開業となっている。

名急設立後に目論見書記載事項変更を申請、1931年3月5日に馬場起点~永源寺間の施工認可を受け1932年年7月10日に着工、八日市中野駅を八日市駅とし、川合寺駅は廃止、新八日市駅は八日市口留置線となり、新八日市駅舎は八日市駅に移築されている。1935年3月1日に馬場起点~永源寺間が開業、新京阪との連絡運輸も開始され、天神橋~永源寺間で超特急が運行を開始している。

馬場起点~永源寺間の開業時に設置された駅は大津・石山・東草津・野洲町・市辺・太郎坊・八日市・飛行場・薗畑・如来・山上であり、太郎坊・飛行場・薗畑・如来の各駅については、近江八幡~永源寺間の列車のみ停車し、その他の列車は通過していた。当時は高速電気鉄道を志向していた時代であった。

名古屋から西をめざして

名急は終点側からも敷設工事が行われた。北勢鉄道・三岐鉄道・養老電気鉄道との連絡輸送により北勢および西濃地域と名古屋都市部との貨客輸送、多度大社への参詣輸送、石榑トンネル建設に必要な物資輸送とトンネル掘削残土運搬が目的である。

1929年9月17日に永源寺~大津起点102km(現在の則武本通3交差点付近)で工事施工認可を取得したが、名古屋市から街路との平面交差をなくすために、市内区間は当面の間築堤を許容するが、いずれ高架橋方式で路線を敷設するように要求されている。名古屋市との協議の結果、大門町東方から緩勾配で地下線に進入して則武線と交差、名古屋駅は2面4線の地下2階構造として地下2階にプラットホーム、地下1階はコンコースとする工事計画となった。後に、庄内川橋梁および新川橋梁と大治駅の距離の関係上、大治駅まで築堤による高架化で施工することが社内で決定されている。

この区間での重要工事は木曽三川への架橋である。総工費215万円で揖斐川橋梁(575m)、長良川橋梁(368m)、木曽川橋梁(873m)の総延長1,816mで、木曽三川の最接近する船頭平付近に複線のワーレントラス橋で架橋するように免許申請されている。1932年11月17日に石榑~名古屋仮駅間が開業したことで、石榑トンネルの掘削も効率化されている。

大津起点102km地点から名古屋駅の区間は、中川運河の工事による笈瀬川の暗渠化、省線名古屋駅の移築計画など名古屋市の都市計画の進捗を待つこととなった。鉄道用地の買収は実施されたものの、この時は工事施工認可を取得しておらず、当面の間、遊里ヶ池に名古屋仮駅(現在の中村駅)を設置して営業することとなった。この名古屋駅建設延期については、敷設予定地に中村遊廓が存在していることから、遊廓移設に関して行政等と交渉していた名急にとっては実際は「ありがたい話」だった。

名古屋駅建設問題

名急名古屋駅の建設にあたっては、名急・名古屋市・鉄道省で1930年代に入ってから協議が重ねられていたが、名古屋市が1936年に高速度鉄道の建設計画を策定したことで混乱に陥った。7路線約52kmを2期に分けて建設するこの計画では、第1期路線の中村~覚王山間で省線名古屋駅の地下を通過する構想であり、1934年夏頃から名古屋駅(3代目)の移築工事を開始していた鉄道省にとっても、省線名古屋駅の建設計画がまとまったことで本駅建設の検討段階に入った名急にとっても予想外の出来事だった。

名古屋駅(2代目)跡地に地下線で駅を建設していた関西急行電鉄と、新名古屋地下トンネルの建設を計画していた名古屋鉄道にも影響が及ぶこととなったが、名古屋市による高速度鉄道建設計画は、1億円超の総工費や名古屋汎太平洋平和博覧会の開催などにより計画見合わせとなったことで各社局の混乱は収束している。しかし、名急名古屋駅の本駅建設計画は、盧溝橋事件を発端とする事変の長期化や相互直通運転の優先などにより白紙のままとなってしまった。

「山を抜き海を超ゆる」

杠葉尾から三重県員弁郡石榑村に至る石榑トンネルの掘削工事は1931年7月10日に開始された。単線並列式で総延長は8,585m、総工費は約795万円を予定していた。 開業を急ぐため、現在の上り線トンネルが先に建設されることとなった。杠葉尾と石榑の両方から掘削を開始、異常出水をはじめ断層による地質の脆化など数々の困難を克服し、およそ6年後の1937年10月31日に貫通している。トンネル扁額には、中国南北朝時代の文学者である庾信の「擬連珠」からの引用で「拔山超海」と揮毫された。「山を抜き海を超ゆる」ことで、無限の力を持つという意味が込められている。

その後、線路敷設工事などが急ピッチで進められ、1938年12月23日に全線が開業、天神橋~名古屋間が一つの線路で結ばれたことで名急の悲願は達成される。1939年1月1日には梅田~名古屋間で超特急の運行が開始され、時局柄各地への参詣輸送で満員だったという。同年3月21日には念願の梅田総合駅が完成、三宮~名古屋間の相互直通運転が開始されている。