なりたち(戦前)その4

西日本急行電気鉄道

西急設立

1943年4月1日に新京阪と名急は陸上交通事業調整法を根拠に「高速かつ高規格にして四大都市間の貨客輸送においては省線代行に適当と認む」とされ、新京阪が名急を吸収合併することで西日本急行電気鉄道(以下旧西急)と商号変更して新たなスタートを切った。名阪間を結ぶ鉄道でありながら社名を西日本とした経緯については、西進構想がいまだ根強かったこと、関西急行鉄道が既に存在していたことによる。

同年5月10日、鉄道省監督局の斡旋により、株主である宇治電興業(旧宇治川電気)の管理下にあった近江鉄道が旧西急の傘下となっている。

同年10月1日、旧西急は阪神から増設線を譲受している。阪神では、本線でも輸送力増強と高速化が進められたことにより、電圧や規格が異なる増設線は建設当時の意義が既に薄れてしまっており、 路線譲渡により合理化を推進したいという思いがあったようである。この他に、1942年4月13日に関西急行鉄道(以下関急)が阪神と連絡する地下鉄道建設の陳情書を提出し、阪神も関急との連絡運輸に期待を寄せ、実現に向けた資金を調達したいという目的があった。これにより、戦前に建設された名神間の高速新線は、旧西急により一本化されることとなった。

戦時の西急

西急設立時には、沿線に軍需工場が新設・転換・拡充されたことで通勤需要が激増、そのほか戦勝祈願や勤労奉仕などを含めると旅客需要は日に日に高くなっていった。

乗客の激増に対応するため、クロスシートのロングシート化や乗降扉付近の座席を撤去して定員増に努めたが、車両保守部品の調達は西急設立時点で既に難化し、車両の酷使も重なって可動車両数は徐々に減少していった。1944年に入ってからは、車両故障や電力制限などにより運転本数は半減、一般の旅客輸送を制限して軍需工場への通勤輸送などを優先するようになった。このため、超特急の運行は休止されている。

鉄道路線については、1944年1月頃に嵐山線が不要不急線に指定され、資材供出の為に単線化されている。1945年7月30日には、揖斐川橋梁・長良川橋梁・木曽川橋梁が機銃掃射を受け、石榑~名古屋間で数日間運行を休止している。

京阪のその後

最後に、新京阪と名急を設立した京阪の動向について触れておく。

新京阪と名急の設立経緯から、高速新線を含めて「大京阪」となるようにも思われていたが、それは実現しなかった。新京阪と名急における京阪の持株比率の変化をはじめ、1939年9月30日に太田光凞が取締役会長を辞任(同年10月14日死去)、1941年12月21日に当時の取締役社長の有田邦敬が死去、その後も取締役社長の交代が相次いだことなどにより、京阪の影響力が既に薄れていたことが理由の一つとされている。だが、いわゆる「弾丸列車計画」の一環として高速新線を一社にまとめ、東海道本線の代替として機能させようとした当局の思惑もあったのである。

その京阪は、政府の勧奨によって1943年10月1日に奈良電気鉄道(以下奈良電)ならびに京阪が全額出資していた交野電気鉄道を合併している。

奈良電については、創業時における京阪と大阪電気軌道(以下大軌)の保有株数は均衡しており、両社に利害関係の衝突もあるなど、交通調整により一元化するにも帰属が問題となっていた。しかし、鉄道省監督局内で大阪東部は関急に、大阪北部は京阪に一元化するのが営業区域を勘案しても合理的と判断され、奈良電と京阪の資本関係も考慮して、当局の慫慂というよりは強制的な決定となった。ただ、当初の事業調整では何ら資本関係のない京阪・阪神・阪急が統合の対象となっており、それと比較すると妥当な決定であった。