なりたち(戦後)その1

苦難の時期

第二次世界大戦が終結し、あらゆるものが不足する中での旅客需要の激増で荒廃した戦後混乱期を経て、戦後復興を目指す1950年代を迎える。しかし、西急は二度の大水害という艱難辛苦に遭遇することになる。

鉄道事業の復興へ

1945年8月15日に第二次世界大戦が終結し、日本は戦後復興の道を歩みはじめる。大都市圏への空襲による施設損壊のほか、車両保守のための資材と人員不足に伴う可動車両の大幅な減少など、戦争による西急の荒廃は甚大であり、早期の復旧が必要とされた。

特に旅客輸送の復旧は喫緊の課題となった。通勤輸送については、戦時中の軍需工場への通勤が、戦災者や疎開者の定住による通勤に移行したのみで増減はわずかだった。しかし、食糧難の深刻化による食糧品売買の旅客輸送が激増したことにより、輸送事情は戦時中よりも悪化、旅客車両の故障車は可動車両で牽引し、有蓋車や無蓋車は客車代用として改造して電気機関車での牽引による旅客輸送が行われていた。だが、公衆道徳の頽廃による鉄道車両の内装品破壊や窃取が相次ぎ、車内の照明灯も点灯できない状態であり、戦時中よりも荒廃していた。

車両の修繕については正雀工場と佐屋工場で実施されていたが、修繕体制の強化を第一に、復員技術者や軍需工場の工員の雇用確保などを目的として、八日市車庫の検修設備を拡張した八日市工場が1946年4月に操業を開始した。将来の車両部品内製化も視野に入れていたことから、当時鉄道車両部品を製造していた大同製鋼熱田工場と安城工場との交流も開始された。だが、大同製鋼は企業再建整備法に基づき、再建に向けた分割計画・事業整備・人員整理を実施することとなった。また、人員整理による労働争議や赤字累積などの様々な事情も重なり、1949年7月に安城工場閉鎖の決定が下された。これを受けて、西急では安城工場の鉄道車両部品製造部門の事業を引き受け、鉄道車両修繕と車両部品製造を行う新会社を設立することとなった。かくして西急と大同製鋼によって1949年10月1日に大同車輌製造が設立された。

1947年3月には運輸省からモハ63形20両の割り当てを受け、翌1948年3月にもモハ63形10両の割当を受けたことで旅客輸送事情は大きく改善されたが、沿線人口の急増には対応しきれていない状態だった。そのような中、何とか明るい話題を提供したいという意気込みもあり、1943年から運行を休止していた超特急が1949年1月1日に座席定員制の臨時超特急として運行を再開、先の見えない状況の中ではあったが社内外ともに希望を与えたという。だが、有料特急列車の再開と車両の増備が本格化するのは1950年代に入ってからとなる。

名古屋市復興計画

1946年に入り、名古屋市は「名古屋市復興計画の基本」を策定した。「国有鉄道及地方鉄道の乗入れ部分は総て高架又は地下とし、街路との平面交叉を除却せんとす」との方針を明確にし、西急の名古屋市内区間の高架化と地下化についても協議していくこととなった。

西急としても名古屋本駅の建設は名急以来の懸案事項であり、仮駅のままだった名古屋駅も旅客需要の激増で容量が逼迫してきていることから、駅西地区の区画整理事業と並行して積極的な協議が行われた。築堤による高架線で開業した大治~中村間についてはビームスラブ式ラーメン高架橋に変更するよう要請があり、1950年3月28日から5カ年計画として大治~中村間の立体交差化事業と名古屋本駅の工事を開始、1953年3月30日に名古屋本駅が開業した。大治~中村間の連続立体交差化事業は西急の事情で1年遅れたものの、1956年6月に上下線とも工事が完了している。

水害との戦い

1950年代は、災害との戦いと大規模な路線改良工事に明け暮れた10年間だった。

1953年9月25日に志摩半島に上陸した台風13号により淀川水系で洪水が発生、安威川にかかる2橋梁の損壊をはじめ、当時地上線だった富田~大山崎間での線路および駅舎の冠水、京阪間各所での路盤流失、京都市内地下線区間の浸水など、水害による被害は甚大であった。水の引きが悪い区間では線路の扛上により仮復旧を行うことで運行を再開、その後路盤改良と共に線路の付け替えを行うなどして1956年3月末に京阪間の路線改良工事を完了させている。

1959年9月26日に潮岬に上陸した台風15号いわゆる伊勢湾台風では、木曽三川以東の区間が壊滅的な被害を受けている。高架橋による高架化が完了していた大治~名古屋間は9月30日に復旧して運転を再開したが、下野代~大治間は湛水により被害状況の確認も不可能な状況だった。決壊した堤防を締め切って排水が完了した区間から順に被害状況が確認されたが、盛土および路盤の流失、橋脚の洗掘、レールの腐食、路線構造物の傾斜・倒壊・流失、車両および駅の浸水など壊滅的な被害だった。また、佐屋車庫と佐屋工場が機能喪失したことにより車両保守に支障をきたすこととなった。復旧工事は11月末に完了し12月7日に下野代~大治間の運転を再開しているが、この区間は水害対策として各河川の改良工事に合わせて連続立体交差事業の計画が組まれることとなった。

洛西の観光開発

戦前、愛宕山への観光誘致を目的に愛宕山鉄道が嵐山~清滝間に平坦線を、清滝川~愛宕間に鋼索線を開業させ、愛宕神社への参拝客や山上施設への観光客で賑わっていた。

新京阪でも愛宕山鉄道への連絡輸送などを実施するなど重要視していた存在だったが、戦時中に全線が不要不急線に指定され、1944年2月11日に鋼索線が、12月11日には平坦線が廃止となって山上などの観光施設も閉鎖、清滝トンネルは軍需工場に転用されることとなった。

戦後、愛宕山鉄道は京福電気鉄道に対して再建や合併を申し入れたが、戦後復興で手一杯の状態であり、支援されることはなかった。新京阪からの縁で西急にも再建と合併の申し入れがあったが、西急も同様に戦後復興や災害復興を優先させたいとして当初は難色を示していた。

沿線に観光資源として多くの神社仏閣を抱えてはいるものの、琵琶湖については京阪が「湖上制覇」と表現したように観光資源をほぼ独占しており、京阪との関係は既に希薄となった西急には恩恵を受ける余地などなかった。とはいえ、娯楽の多様化の観点からも新たな観光資源を開発あるいは獲得しなければ、恒常的な旅客需要も望めないと判断し、一転して愛宕山鉄道の合併申し入れに合意したのである。

愛宕山鉄道の再建にあたり、平坦線は西急の車両規格の関係から全線単線として各駅に交換設備を設置することとし、新たに京福電気鉄道分岐点~嵐山間で免許を取得することで嵐山線と一本化する方針となった。1957年2月4日に嵐山~清滝間で敷設免許申請を出願、翌1958年6月23日に敷設免許を取得している。1959年6月2日に工事施行認可を受けて敷設工事が始まったが、伊勢湾台風の復旧に注力するため1年以上工事が中断することとなった。1960年11月から工事が再開され、1962年8月28日に嵐山~清滝間の工事は完了し、平坦線は嵐山線に編入されている。

鋼索線については、愛宕山鉄道建設時と同様に、まず1960年11月頃に工事用索道が敷設され、鋼索線と山上各種施設再建のための資材輸送が開始された。1962年8月末には鋼索線と山上各種施設の工事が完了し、1962年9月15日に嵐山線嵐山~清滝間と鋼索線の二の鳥居~愛宕遊園間が開業した。これにより、愛宕神社や山上観光施設のほか、洛西地域への観光および旅客輸送に大いに貢献することとなった。

また、嵐山から高雄を結ぶドライブウェイを1965年11月13日に開業させ、沿道に展望台や遊園地などのレジャー施設を設けるなど、洛西を自社の観光資源とするために、その後も開発が推進されることとなった。