なりたち(戦後)その2

飛躍へ向かって

西急の1960年代は、二度の水害から立ち直り、発展期を迎え変化の多い時期であった。1960年代後半は、万博開催に向けた路線の整備が行われ、北大阪急行電鉄の設立や大阪市営地下鉄との相互直通運転開始など、慌ただしくも活気のある時期となった。

湖南・湖東開発への全面協力

1960年に滋賀県は初めての総合開発計画「県勢振興の構想」をまとめ、経済開発と工場誘致による地域振興を本格的に目指し始めた。鉄道輸送についても、社会活動の円滑化を図るための整備が強く求められていた。

西急でも滋賀県からの要請を受けて、これまで都市間輸送主体だった大津~野洲間について、主要な地域に沿線開発地域のハブとして駅を設置し、地域間輸送に貢献していくこととなった。具体的には、これまで大津・石山・東草津(現草津)・野洲町(現野洲)の各駅だった区間に、1965年までに(大津)・膳所・(石山)・建部・瀬田・狼川・志津・(草津)・栗東・出庭・(野洲)の各駅を一挙に開業している。そして、大津~八日市間における運行本数および京都方面への直通列車を倍増させることで、京阪神との連携を密にし、様々な需要の拡大に努めた。また、官民連携のもと、上記の各駅での宅地開発などが進められていくこととなった。

京阪間での発展

1958年9月に、大阪府企業局が開発主体となって千里丘陵に日本初の大規模ニュータウンである千里ニュータウンを開発することが決定した。このとき、大阪府から千里山線をニュータウンへのアクセス路線として延伸するように要請され、1963年8月29日に千里山~新千里山間が、1967年3月1日に新千里山~北千里間が開業している。その後、1969年11月10日から1970年9月14日まで日本万国博覧会へのアクセスの為に、南千里~北千里間に万国博西口駅が開設されている。万博開催時は各方面から直通列車が運行され、万国博西口駅では、一日最高20万人、開催期間中は約900万人の乗降客があった。

沿線開発については、既存の分譲地拡大のほか、新たに京阪間の乙訓地域、すなわち、大山崎町・向日町(現在の向日市)・長岡町(現在の長岡京市)で沿線開発を行っている。

東海道新幹線が与えた影響

1964年10月1日に東海道新幹線が開業したことにより、関西圏と中京圏の速達列車として大きな需要があった名神特急は大きな打撃を受けることとなった。運行本数の増加など「待たずに乗れる」ことを売り出すなどの対抗策を講じたが、東海道新幹線が1967年に「ひかり」「こだま」が20分間隔での運行を開始すると、もはや内装の優位性だけでは太刀打ちできない状況となり、短編成化しても明らかに空席が目立つ状況となった。

その一方で、三宮~大津間の区間特急の利用状況は堅調であることから、利用客や沿線自治体の要望などを勘案して、名神特急は長距離特急から都市間連絡特急へと運用方法を抜本的に見直すことを余儀なくされた。

だが、見直しが実施されたのは1970年代に入ってからであり、「怠慢」との声も聞かれた。三宮~名古屋間の名神特急については依然として「特別急行としての矜持」に固執していたことは確かであり、通勤時間帯における着席乗車を目的とした短距離区間乗車などの要望は、区間特急で対応させればよいという考えであった。

都市交通審議会答申第7号

1963年3月29日の都市交通審議会答申第7号において、大阪市営地下鉄第1号線(御堂筋線)の殺人的混雑の早急な対策として並行路線整備の必要性が示され、「最も緊急に整備すべき路線」として第6号線(堺筋線)が、「新設すべき路線」として第1号線の江坂~千里山間延伸が挙げられた。

このうち、第1号線江坂~千里山間について、大阪市としては、市域外であり大阪府の補助が得られないこと、市民の理解が得られるかという懸念、建設後の莫大な赤字、御堂筋線のさらなる容量逼迫などを理由に着工には消極的だった。だが、日本万国博覧会の千里丘陵での開催が1965年に決定し、複数のアクセス手段の確保が必要となり、千里線と第1号線がその対象となったことから、緊急に整備すべき路線となった。

大阪市営地下鉄第6号線

大阪市営地下鉄第6号線のルートは計画当初、大阪市・南海電気鉄道・西急でそれぞれ建設計画があった。しかし、軌間や架線電圧などの相違点が多く、収拾がつかない状態だったところ、1965年8月12日に近畿陸運局から軌間は標準軌とする裁定が下り、第6号線は大阪市が建設して西急と相互直通運転を実施することとなった。

1969年12月6日の開業までの間に、大阪市との度重なる協議があった。大阪市は天神橋筋六丁目駅を設定し、そこから西急本線に入り千里線および本線の高槻まで乗り入れる計画を示した。これに対し西急は、梅田~淡路間は千里線と共用しており線路容量が逼迫していること、営業を維持しながらの天神橋駅の改修は困難とこれを拒否、十三線淡路~十三間と柴島浄水場南西にある東海道本線旧線の廃線敷を利用して千里線にのみ乗り入れるように要求している。

この西急の提案に対し、迂回ルートでは建設費が高騰することを理由に再考を要求するものの、西急は淡路駅での平面交差は運行に支障をきたすこと、立体交差化の場合は駅周辺の用地確保が困難であり、運行させながらの高架化は工事が長期化し費用がかさむとして難色を示した。

協議は平行線であったが、アクセス手段の早期完成を各所から要請されたこともあり、当初天神橋駅続の予定だった第6号線は、天神橋駅の西方に浪花町駅を新設し、そこで接続することとされた。西急は十三線南方駅を東に移設し新淀川橋梁を新設して浪花町駅へ至る路線を新設、後に十三線と新設線は千里線に編入されている。なお、新淀川橋梁の架橋を最優先としたため、免許を取得していた北千里~萱野間の建設計画については全て凍結することとなった。

1969年12月6日に第6号線の浪花町~動物園前間が開業、万博開催期間中に動物園前~北千里間と三宮~北千里間で「エキスポ準急」が運行され、多くの来場客を会場へ輸送している。

北大阪急行電鉄設立

1号線江坂~千里山間延伸については建設主体が不詳の状態であり、大阪市の他に西急にも建設主体となるよう打診があった。しかし、万博へのアクセス手段として選定されている千里線の線形改良や第6号線関連の事業を優先させたいこと、新幹線から会場までのアクセスは御堂筋線を延伸させて会場まで直通させる方が乗換え等の煩わしさが無く最善であること、車両規格が異なるため大阪市側に一任したいなどの理由で、当初消極的な態度を示していた。

その後、財団法人日本万国博覧会協会と大阪府は、大阪市と西急に御堂筋線延伸計画の提示を強く要求、建設費を安く抑えられる西急の試案が採用され、路線も西急主導で建設されることとなった。

1967年12月11日に建設用の子会社として大阪府・大阪市・関西電力・西急などによる北大阪急行電鉄(以下北急)が設立され、1970年2月24日に本線江坂~千里中央(仮駅)と会場線千里中央(仮駅)~万国博中央口間が開業した。開催終了に伴い、同年9月14日に会場線千里中央~万国博中央口間が廃止されたが、この時の路線の撤去費用は中国自動車道建設のために国が負担することとなり、建設費も万博開催期間中に償却出来たことから、当初の懸念は払拭された。