なりたち(戦後)その3

新しい時代の始まり

西急の1970年代は、商号変更・駅設備の近代化・特急の変革という大きな出来事があった。また、永源寺ダム建設に伴う新線への付け替えと新石榑トンネルの建設、連続立体交差化事業の継続と「高架下商店街」の新規建設など、総合サービス企業への変革にむけ動き始めた時期である。

商号変更

1960年からの10年間でレジャー・不動産・旅行等の各付帯事業でも様々な発展を遂げた西急は、鉄道事業を主軸とした総合サービス企業への変革の時期を迎えていた。1972年6月28日に新京阪鉄道設立から50周年を迎えることから、イメージチェンジの節目にふさわしいと考え、同年4月1日に西日本急行電気鉄道から西日本急行に商号変更している。「電気鉄道」の名称を外し、鉄道専業から多角経営への姿勢を明確にするのが狙いだった。

この商号変更にあわせて、ブランドの確立と強化に向けた動きがあった。これまで略称として浸透していた“西急”の名称を公式略称として制定したのをはじめ、鉄道車両の側面に掲出されているエンブレムについての明文化、普通車で用いられいるミッドナイトブルーの塗色をコーポレートカラーに制定している。

当時はコーポレート・アイデンティティの概念が社会に浸透していなかったが、企業文化の構築と内部統一を行うために実施されている。特に内部統一については、西急設立の経緯から旧会社の路線区間ごとに組織の風土が違う部分があり問題視されていたことによる。

運輸設備の革新

1965年には千里線に自動列車停止装置(ATS)および列車運行管理システムが導入され、1970年の万博開催までに全線でATSの設置が完了している。

鉄道線路のうち本線については、沿線の人口増加や自動車交通の発達に起因する交通渋滞の緩和と踏切事故の解消を目的に、沿線自治体との協力のもと1970年代初めから連続立体交差事業が開始している。あわせて、沿線の付加価値を高めていくため、高架下空間の有効利用を推進していくこととなった。特に京阪神間の平面交差解消は「開かずの踏切」により道路交通に支障をきたしていることから急務となっていた。

駅設備については、1972年から10カ年計画で近代化整備が進められていくこととなった。全ての駅に自動券売機が導入され、1972年には千里線全駅で定期・普通乗車券共用の自動改札機が設置されるなど、駅業務の機械化による省力化・効率化が進められていく。翌1973年には梅田駅で定期券発行機が導入され、順次主要駅に設置が進められ発券業務の集約化が図られた。また、日本万国博覧会でのサインシステム導入実績を受けて、商号変更と駅設備の近代化整備を機に駅案内表示類のデザインが見直されることとなり、全駅で展開されていくこととなった。

駅舎については、木造駅舎の建て替え工事が始まり、同時に駅周辺の改修工事が進められていく。主要駅では小規模な駅ビルが建築されているが、商業施設などを入居させることで駅利用客の利便性を高めることが狙いである。また、将来の旅客需要増加を見込んでホームの8両編成対応工事が開始されている。

車両については、1973年秋に発生した第一次オイルショックを機に省エネルギー・省資源・省コストに代表される合理化が推進されていく。西急でも車両技術や電子技術の進歩を反映させ、省エネルギー化を目的に次期新型車両の模索を開始し、その実用試験系列として9010系が製造され、1975年から1985年にかけてさまざまな試験が実施されている。

新生「名神特急」

東海道新幹線の開業により名神間直通のシェアが著しく低下した特急列車に大きな動きがあった。名神特急の「特別急行としての矜持」を破却し、これまで名神間を直通する「名神特急」と、三宮~大津間で運行されていた「区間特急」が統合され、新生「名神特急」となったのである。

充当される車両も、車内設備の格差是正や乗降遅延が常態化していた区間特急の実情を踏まえたものとなった。1963年頃から視察や実証試験と検証を重ねた結果、1972年4月1日の商号変更にあわせて新型特急電車5000系が営業運転を開始することとなった。

1973年には特急券のオンライン化が行われたことで駅端末での迅速な発券が可能となり、「区間特急」と「名神特急」が「特急」として統合され、短距離区間の乗車制限も撤廃されている。その後、特急券の発売については、後に自動券売機が導入されたことでより利便性が向上することとなった。

新石榑トンネルの開通

1963年始めから永源寺ダムの建設工事が開始された。これにより、永源寺~萱尾トンネル間が水没することから、国や滋賀県との度重なる協議のもと、愛知川右岸に付け替え用の新線が建設されることとなった。

1964年10月1日の東海道新幹線開業によって名神特急は大打撃を受けたが、1960年代に入り工業団地が形成されつつある湖東地域と中京圏との地域間輸送の需要は増加の一途をたどっていることから、この新線への付け替えによって所要時間の短縮が見込まれ、旅客需要に対応できることとなった。しかし、戦前に開通を急いだために単線のままだった石榑トンネルが支障となっていた。

新線付け替え工事にあわせ、1965年から単線トンネルで新石榑トンネルの建設が開始された。技術の進歩もあり石榑トンネルのおよそ半分の工期で完成し、1969年10月1日のダイヤ改正から新石榑トンネルの運用が開始された。当初、上下線で専用のトンネルにすることも考えられたが、トンネル保守工事や冗長性確保の観点から、永源寺~石榑間は双単線方式に改められることとなった。