西日本急行は、1943年4月1日に陸上交通事業調整法を根拠とした新京阪鉄道による名古屋急行電気鉄道の吸収合併と、阪神電気鉄道からの路線譲受により発足した経緯から、各鉄道会社ごとに個別に記述する。また、各鉄道会社における鉄道路線の成立過程等については別に記す。

戦前

新京阪鉄道

西日本急行の母体である新京阪鉄道は、京阪電気鉄道が出願した淀川西岸支線の建設を目的とした別会社として、1922年6月28日に設立された。当初、大阪側起点は梅田に京阪との総合駅を設置予定だったが、城東線払下問題や高架工事延期等の理由により、起点決定に難航してしていた。そのため、京阪は淡路~天神橋間の免許を保有していた北大阪電気鉄道に着目し、同社を買収して路線と免許を新京阪へ譲渡させることで、天神橋を当面の大阪側起点とする計画となった。かくして1923年4月1日、新京阪は北大阪電気鉄道の鉄道事業を譲受し、天神橋~四条大宮間の建設が開始される運びとなった。

1925年10月15日に天神橋~淡路間が開業、1928年1月16日の淡路~高槻町間開業時には架線電圧を直流1,500Vに昇圧し、東洋一の電車といわれたP-6ことデイ100形電車が投入されている。同年11月1日に高槻町~京都西院間、同11月9日に桂~嵐山間が開業している。

1928年8月7日には天神橋~角田町間の免許を取得しており、梅田進出の機会を窺うこととなった。また、京都市内への延伸については、後述する名古屋急行電気鉄道の計画の進捗を待つこととなった。

阪神電気鉄道 岩屋尼崎間増設線

阪神電気鉄道(以下阪神)では、阪神本線の高速化と輸送力増強および競合電鉄会社への対抗手段として、1910年1月20日と26日に尼崎~伝法町~西野田兼平町間と神戸市布引町~尼崎間の軌道敷設特許を申請している。同年8月15日に神戸市布引町~尼崎間は却下されたが、1911年8月25日に尼崎~伝法町~西野田兼平町間の軌道敷設特許を取得した。大阪市電の計画線と重複する区間を短縮した上で、伝法線として1924年1月20日に大物~伝法間が開業、同年8月1日に伝法~千鳥橋間が開業、1928年12月28日に大物~尼崎間が開業している。伝法線の梅田延伸については幾度か計画の変更があったが、1929年4月1日に千鳥橋~出入橋間が開業、出入橋~梅田間は本線と合流予定であり大阪駅前土地区画整理事業の進捗を待つ状態となった。

神戸から尼崎の区間については、1919年11月19日に西灘村岩屋~尼崎市別所村間19.0kmの軌道敷設特許を取得したものの、様々な事情により工事が遅れていた。1930年7月10日に岩屋~西宮間の工事が完了、1934年5月2日に西宮~尼崎間が開業し、西宮~尼崎~姫島~出入橋間での営業運転を開始している。岩屋~西宮間の開業については、1935年6月20日の三宮~岩屋間の完成を待つこととなった。

新京阪と阪神の相互直通運転計画

阪神には開業直後から京都進出構想があり、阪神は1913年3月に北大阪線本庄~城北~吹田~茨木~高槻~大山崎~向日~桂~壬生に至る淀川西岸にルートをとった京都延長線の特許を申請しているが、1914年7月に却下されている。それとは別に、京阪および新京阪との数度にわたる接触があった。

相互直通運転計画が大きく前進したのは、新京阪稗島線の免許譲受だった。1923年、新京阪が十三~阪神稗島(姫島)間3.2kmの免許を取得したが、大阪市の都市計画事業に阻まれ、新京阪は自力での建設を断念した。1926年12月11日に阪神と新京阪の間で当該区間の免許権譲渡契約が締結され、同日淡路~十三~姫島間での相互乗り入れ計画が、翌12日には神戸~京都間での直通運転計画が締結している。同年4月には京阪でもこの譲渡案が議決されている。1928年2月に鉄道省から認可され、2月12日に再び神戸~京都間の相互直通運転の契約が結ばれている。だが、稗島線を経由しての相互直通運転ではなく、「大阪市と協議し梅田で接続する事が妥当」との意見が両社で多数を占めており、両社の梅田延伸計画が一気に進展したのである。

新京阪の天神橋~梅田間は1935年3月から、阪神の梅田延伸区間は1936年11月17日から工事が開始され、両社の延伸区間は1938年3月21日に開業、阪神増設線は架線電圧を直流1,500Vに昇圧し、準拠法が地方鉄道法による地方鉄道に変更されている。

名古屋急行電気鉄道

京阪神で高速新線が建設されていた1928年6月12日、京阪社長太田光熈を発起人総代とする名古屋急行電気鉄道(以下名急)が、大津市膳所~名古屋市南区尾頭(金山)間の電気鉄道の免許を申請、1929年6月29日、当時の小川平吉鉄道相の免許乱発により地方鉄道敷設免許を取得した。

当初は京阪の主導で敷設する予定だったが、新京阪の建設のために多額の借金を抱えていた実情もあり、名古屋までの建設はおろか母体である京阪の経営自体も危うい状況だった。だが、名急設立には各方面から大いに期待が寄せられており、競願していた私鉄二社の発起人のほか、いわゆる阪神財閥や近江商人系企業も出資者に加わることとなった。京阪の影響力を減少させるために、名急だけではなく新京阪への出資の動きもあったことから持株比率が変化し、京阪は借金返済の目処がついたものの主導力を喪失する事態となった。かくして、1930年9月15日、名古屋急行電気鉄道は設立された。

以下は、免許申請時における発起人の一覧である。

  • 太田光凞(京阪電気鉄道社長)
  • 湯淺七佐衛門(新京阪鐵道監査役、湯淺七佐衛門商店)
  • 馬場齊吉(京阪電気鉄道取締役、高野山電気鉄道取締役)
  • 濱崎健吉(京阪電気鉄道監査役)
  • 渡邊嘉一(京阪電気鉄道取締役、東洋電機製造・京阪土地社長、大同電力監査役)
  • 井上周(新京阪鉄道・阪神急行電鉄取締役)
  • 大原孫三郎(京阪電気鉄道取締役、大原財閥)
  • 津村紀陵(京阪電気鉄道監査役、和歌山倉庫銀行頭取)
  • 大野盛郁(京都市参与、京都市水利水道電気軌道各事務所長)
  • 野呂靜(東濃電化社長)
  • 有田邦敬(大阪市助役)
  • 神野金之助(三河水力電気社長、名古屋鉄道・遠州電気鉄道・高野山電気鉄道取締役)
  • 跡田直一(旧名古屋鉄道常務取締役、美濃電気軌道取締役)
  • 兼松凞(濃飛電気・長良川電化社長・東美鉄道取締役)
  • 藍川清成(愛知電気鉄道・碧海電気鉄道社長、大同土地・名古屋土地取締役、東邦電力法律顧問)
  • 富田重助(旧名古屋鉄道社長)
  • 伊藤伝七(三岐鉄道社長)
  • 志水正太郎(愛知電気鉄道・碧海電気鉄道取締役)
  • 田代榮重(愛知電気鉄道・鳴海土地・碧海電気鉄道取締役)
  • 村瀨末一(大同電力取締役兼支配人)
  • 增田次郞(昭和電力社長、大同電力常務取締役・2代目社長)
  • 林安繁(宇治川電気社長)
  • 影山銑三郎(宇治川電気常務取締役・副社長)
  • 山崎主計(宇治川電気取締役兼支配人)
  • 井上秀尭(会社員)
  • 松島寛三郎(新京阪鉄道取締役、新阪神土地監査役)
  • 福澤桃介(大同電力社長)

馬場起点~永源寺間は、琵琶湖鉄道汽船の鉄道部門を譲受したことによる経由地の変更などがあったが、1932年7月10日に着工し、1935年3月1日に馬場起点~永源寺間が開業、先に開業した新京阪大津延伸線を経由して相互直通運転も開始され、天神橋~永源寺間で超特急の運行が開始された。

敷設工事は名古屋側からも実施された。1929年9月17日に永源寺~大津起点102km(現在の則武本通3交差点付近)で工事施工認可を取得し、木曽三川への架橋や滋賀県神崎郡山上村から三重県員弁郡石榑村に至る石榑トンネル掘削工事などの難工事を克服して、1938年12月23日に名急は大津~名古屋仮駅が開業、名阪間が一つの線路で結ばれた。1939年1月1日に梅田~名古屋間で運行を開始した超特急は、時局柄参詣輸送で満員だったという。同年3月21日、念願の梅田総合駅が開業したことで、三宮~名古屋間の相互直通運転が開始されている。

京都市内の路線

新京阪と名急の連絡線は、当初の計画では京都市内を経由せず、新京阪が免許を保有していた西向日町駅から山科駅に至る路線を建設し、山科駅からは京阪が計画中だった六地蔵線に乗り入れて大津市馬場に至る計画だった。一方の新京阪は、1926年9月27日に京都市の四条通拡幅工事に対して報償金300万円を支払うことにより、京都市議会には秘密裡で、京都市長と西院~四条河原町間の地下線敷設契約を締結していた。名急と新京阪は、これらの計画を一本化し、京都市内の地下線を延長して山科に至る計画に変更しようとしていた。

しかし、新京阪が計画していた四条通直下での貫通の場合、八坂神社や大谷祖廟の境内の通過は容易ではないこと、市の中心部であることから用地買収の費用が嵩むこと、京都市電が既に四条通を走行していること、京阪京津線の処理等を勘案の上、再度連絡線の経路を検討することとなった。

五条通であれば市中心部に近い位置を通過でき、大きく線形を変化させること無く東海道本線の旧線路敷に接続できることから、再度京都市と協議することとなった。四条通の地下線契約露見による市議会での混乱はあったが、京都市街を横断する市電の代替として便宜を図ること、蹴上~山科間の京津国道拡幅工事の負担を条件として市議会で正式に了承された。

その後、1929年8月2日に西京極~五条通~髭茶屋追分間の地方鉄道敷設免許を取得し、1933年8月31日に西京極~大津市馬場起点が開業、名急との連絡が可能となった。この新京阪大津延伸線について、建設にかかる資金調達の社債購入および借入金の保証については、名急の出資者のほか京都財界も関与しており、このことが京阪と新京阪との合併決議が否決される一因となったのである。

「西急」の発足

1943年4月1日、新京阪と名急は「高速かつ高規格にして四大都市間の貨客輸送においては省線の代行に適当と認む」との事由により、陸上交通事業調整法を根拠に新京阪が名急を吸収合併し、西日本急行電気鉄道(以下旧西急)と商号変更した。

新京阪鉄道からの商号変更に際し、吸収合併する名古屋急行電気鉄道の社名の一部である「急行電気鉄道」を残すこととなった。冠する名称については、鉄道路線の走行地域から勘案して「近畿」「名神」の案が出された(「関西」については当時既に関西急行電鉄が存在していたため、予め除外されている)。「近畿」については、走行地域が中京に及んでいることから却下され、「名神」については、当時岡山への西進構想が残っていたことから、前2案同様に却下されている。結果として、前述した西進構想の趣意を汲んで「西日本」を冠する決定が下されたのである。このとき、1942年9月22日に発足している西日本鉄道に対して商号に関する問い合わせをしており、営業地域が離れているものの、両社の混同を避けるために「西急」の略称を使用していくこととなった。

同年5月10日、鉄道省監督局の斡旋により、株主である宇治電興業(旧宇治川電気)の管理下にあった近江鉄道が旧西急の傘下となっている。

同年10月1日、旧西急は阪神から増設線を有償で譲受している。阪神では、本線でも輸送力増強と高速化が進められたことにより、電圧や規格が異なる増設線は建設当時の意義が既に薄れてしまっており、 路線譲渡により合理化を推進したいという思いがあったようである。この他に、1942年4月13日に関急が阪神と連絡する地下鉄道建設の陳情書を提出し、阪神も関西急行電鉄との連絡運輸に期待を寄せ、実現させたいという目的があった。これにより、戦前に建設された名神間の高速新線は、旧西急によって一本化されることとなった。

西急設立時には、沿線に軍需工場が新設・転換・拡充されたことで通勤需要が激増、そのほか戦勝祈願や勤労奉仕などを含めると旅客需要は日に日に高くなっていった。乗客の激増に対応するため、クロスシートのロングシート化や乗降扉付近の座席を撤去して定員増に努めたが、車両保守部品の調達は西急設立時点で既に難化し、車両の酷使も重なって可動車両数は徐々に減少していった。1944年に入ってからは、車両故障や電力制限などにより運転本数は半減、一般の旅客輸送を制限して軍需工場への通勤輸送などを優先するようになった。このため、超特急の運行は休止されている。

鉄道路線については、1944年1月頃に嵐山線が不要不急線に指定され、資材供出の為に単線化されている。1945年7月30日には、揖斐川橋梁・長良川橋梁・木曽川橋梁が機銃掃射を受け、石榑~名古屋間で数日間運行を休止している。

戦後

戦後の輸送混乱

1945年8月15日に第二次世界大戦が終結し、日本は戦後復興の道を歩みはじめる。空襲による施設や車両損壊のほか、車両保守のための資材や人員の不足などの要素が重なり、可動車両は大幅に減少していた。戦争による西急の荒廃は甚大であり、早期の復旧が必要とされた。

特に旅客輸送の復旧は喫緊の課題となった。通勤輸送については、戦時中の軍需工場への通勤が、戦災者や疎開者の定住による通勤に移行したのみで増減はわずかだったが、食糧難の深刻化による食糧品売買の旅客輸送が激増したことにより、輸送事情は戦時中よりも悪化していた。不動車両を可動車両で牽引するほか、有蓋車や無蓋車を客車代用として電気機関車で牽引しての旅客輸送が日常的に行われ、使用する車両も、公衆道徳の頽廃による相次ぐ内装品破壊や窃取により、車内の照明灯も点灯できない状態であり、戦時中よりも荒廃していた。

当時、車両の修繕については正雀工場と佐屋工場で実施していたが、修繕体制の強化を第一に、復員技術者や軍需工場の工員の雇用確保などを目的として、八日市車庫の検修設備を拡張した八日市工場が1946年4月に操業を開始した。将来の車両部品内製化も視野に入れており、大同製鋼との交流も開始されている。その後、大同製鋼安城工場の閉鎖に伴う部門譲受などを経て、鉄道車両修繕と車両部品製造を行う新会社を設立することとなり、1949年10月1日に、西急と大同製鋼の共同出資で大同車輌製造を設立している。

1947年3月には運輸省からモハ63形20両の割り当てを受け、翌1948年3月にもモハ63形10両の割当を受けたことで旅客輸送事情は大きく改善されたが、沿線人口の急増には対応しきれていない状態だった。先の見えない状況の中ではあったが、何とか明るい話題を提供したいという思いもあり、1943年から運行を休止していた超特急が1949年1月1日に座席定員制の臨時列車として運行された。だが、有料特急列車の再開と車両の増備が本格化するのは1950年代に入ってからとなる。

名古屋市復興計画

1946年に入り、名古屋市は「名古屋市復興計画の基本」を策定した。「国有鉄道及地方鉄道の乗入れ部分は総て高架又は地下とし、街路との平面交叉を除却せんとす」との方針を明確にし、西急の名古屋市内区間の高架化と地下化についても協議していくこととなった。

西急としても名古屋本駅の建設は名急以来の懸案事項であり、仮駅のままだった名古屋駅も旅客需要の激増で容量が逼迫してきていることから、駅西地区の区画整理事業と並行して積極的な協議が行われた。築堤による高架線で開業した大治~中村間についてはビームスラブ式ラーメン高架橋に変更するよう要請があり、1950年3月28日から5カ年計画として大治~中村間の立体交差化事業と名古屋本駅の工事を開始、1953年3月30日に名古屋本駅が開業した。大治~中村間の連続立体交差化事業は西急の事情で1年遅れたものの、1956年6月に上下線とも工事が完了している。

水害との戦い

1950年代は、災害との戦いと大規模な路線改良工事に明け暮れた10年間だった。1953年9月25日に志摩半島に上陸した台風13号により淀川水系で洪水が発生、安威川にかかる2橋梁の損壊をはじめ、当時地上線だった富田~大山崎間での線路および駅舎の冠水、京阪間各所での路盤流失、京都市内地下線区間の浸水など、水害による被害は甚大であった。水の引きが悪い区間では線路の扛上により仮復旧を行うことで運行を再開、その後路盤改良と共に線路の付け替えを行うなどして1956年3月末に京阪間の路線改良工事を完了させている。

1959年9月26日に潮岬に上陸した台風15号いわゆる伊勢湾台風では、木曽三川以東の区間が壊滅的な被害を受けている。高架橋による高架化が完了していた大治~名古屋間は9月30日に復旧して運転を再開したが、下野代~大治間は湛水により被害状況の確認も不可能な状況だった。決壊した堤防を締め切って排水が完了した区間から順に被害状況が確認されたが、盛土および路盤の流失、橋脚の洗掘、レールの腐食、路線構造物の傾斜・倒壊・流失、車両および駅の浸水など壊滅的な被害だった。また、佐屋車庫と佐屋工場が機能喪失したことにより車両保守に支障をきたすこととなった。復旧工事は11月末に完了し12月7日に下野代~大治間の運転を再開しているが、この区間は水害対策として各河川の改良工事に合わせて連続立体交差事業の計画が組まれることとなった。

洛西の観光開発

戦前、愛宕山への観光誘致を目的に愛宕山鉄道が嵐山~清滝間に平坦線を、清滝川~愛宕間に鋼索線を開業させ、愛宕神社への参拝客や山上施設への観光客で賑わっていた。新京阪でも愛宕山鉄道への連絡輸送などを実施するなど重要視していた存在だったが、戦時中に全線が不要不急線に指定され、1944年2月11日に鋼索線が、12月11日には平坦線が廃止となって山上などの観光施設も閉鎖、清滝トンネルは軍需工場に転用されることとなった。

戦後、愛宕山鉄道は京福電気鉄道に対して再建や合併を申し入れたが、戦後復興で手一杯の状態であり、支援されることはなかった。新京阪からの縁で西急にも再建と合併の申し入れがあったが、西急も同様に戦後復興や災害復興を優先させたいとして当初は難色を示していた。

沿線に観光資源として多くの神社仏閣を抱えてはいるものの、琵琶湖については京阪が「湖上制覇」と表現したように観光資源をほぼ独占しており、京阪との関係は既に希薄となった西急には恩恵を受ける余地などなかった。とはいえ、娯楽の多様化の観点からも新たな観光資源を開発あるいは獲得しなければ、恒常的な旅客需要も望めないと判断し、一転して愛宕山鉄道の合併申し入れに合意したのである。

愛宕山鉄道の再建にあたり、平坦線は西急の車両規格の関係から全線単線として各駅に交換設備を設置することとし、新たに京福電気鉄道分岐点~嵐山間で免許を取得することで嵐山線と一本化する方針となった。1957年2月4日に嵐山~清滝間で敷設免許申請を出願、翌1958年6月23日に敷設免許を取得している。1959年6月2日に工事施行認可を受けて敷設工事が始まったが、伊勢湾台風の復旧に注力するため1年以上工事が中断することとなった。1960年11月から工事が再開され、1962年8月28日に嵐山~清滝間の工事は完了し、平坦線は嵐山線に編入されている。

鋼索線については、愛宕山鉄道建設時と同様に、まず1960年11月頃に工事用索道が敷設され、鋼索線と山上各種施設再建のための資材輸送が開始された。1962年8月末には鋼索線と山上各種施設の工事が完了し、1962年9月15日に嵐山線嵐山~清滝間と鋼索線の二の鳥居~愛宕遊園間が開業した。これにより、愛宕神社や山上観光施設のほか、洛西地域への観光および旅客輸送に大いに貢献することとなった。

また、嵐山から高雄を結ぶドライブウェイを1965年11月13日に開業させ、沿道に展望台や遊園地などのレジャー施設を設けるなど、洛西を自社の観光資源とするために、その後も開発が推進されることとなった。

湖南・湖東開発への全面協力

1960年に滋賀県は初めての総合開発計画「県勢振興の構想」をまとめ、経済開発と工場誘致による地域振興を本格的に目指し始めた。鉄道輸送についても、社会活動の円滑化を図るための整備が強く求められていた。

西急でも滋賀県からの要請を受けて、これまで都市間輸送主体だった大津~野洲間について、主要な地域に沿線開発地域のハブとして駅を設置し、地域間輸送に貢献していくこととなった。具体的には、これまで大津・石山・東草津(現草津)・野洲町の各駅だった区間に、1965年までに(大津)・膳所・(石山)・神領(現建部大社)・瀬田・狼川・志津・(草津)・栗東・出庭・(野洲)の各駅を一挙に開業している。そして、大津~八日市間における運行本数および京都方面への直通列車を倍増させることで、京阪神との連携を密にし、様々な需要の拡大に努めた。また、官民連携のもと、上記の各駅での宅地開発などが進められていくこととなった。

京阪間での発展

1958年9月に、大阪府企業局が開発主体となって千里丘陵に日本初の大規模ニュータウンである千里ニュータウンを開発することが決定した。このとき、大阪府から千里山線をニュータウンへのアクセス路線として延伸するように要請され、1963年8月29日に千里山~新千里山間が、1967年3月1日に新千里山~北千里間が開業している。その後、1969年11月10日から1970年9月14日まで日本万国博覧会へのアクセスの為に、南千里~北千里間に万国博西口駅が開設されている。万博開催時は各方面から直通列車が運行され、万国博西口駅では、一日最高20万人、開催期間中は約900万人の乗降客があった。

沿線開発については、既存の分譲地拡大のほか、新たに京阪間の乙訓地域、すなわち、大山崎町・向日町(現在の向日市)・長岡町(現在の長岡京市)で沿線開発を行っている。

東海道新幹線と名神特急

1964年10月1日に東海道新幹線が開業したことにより、関西圏と中京圏の速達列車として大きな需要があった名神特急は大きな打撃を受けることとなった。1965年10月1日の「ひかり」「こだま」毎時2本運転の開始により名阪間を通して乗車する旅客は減少の一途をたどり、1967年10月1日の「ひかり」「こだま」20分間隔運転開始によって、名阪間のシェアは近鉄名阪甲特急と同様に大幅に低下した。

名神特急は長距離特急としての”特別急行の矜持”に固執することを諦めねばならず、利用客や沿線自治体の要望などを勘案して、都市間連絡特急へと運用方法を抜本的に見直すことを余儀なくされた。当時、朝夕ラッシュ時の着席保証列車として運行されていた三宮~大津間の区間特急の利用状況は堅調であることから、まず名神特急における短距離区間乗車の発売制限が撤廃され、次いで区間特急の運行区間が草津まで延長されている。ただ、区間特急で使用されている車両は一般車からの格上げ改造車であり、特急車で運行している名神特急とは車内設備の格差があることから是正を求める声は日に日に多くなり、運用車両の一本化が望まれていた。

折しも設計段階だった新型急行車を新型特急車として設計変更し、1970年3月15日の日本万国博覧会開幕に合わせてデビューした。種車の関係から片開き2扉となり、供食設備もカウンターで飲料と軽食を販売するビュッフェ形式となっているが、設備としては必要十分であり、以降の特急車にも継承されていくことになった。

都市交通審議会答申第7号

1963年3月29日の都市交通審議会答申第7号において、大阪市営地下鉄第1号線(御堂筋線)の殺人的混雑の早急な対策として並行路線整備の必要性が示され、「最も緊急に整備すべき路線」として第6号線(堺筋線)が、「新設すべき路線」として第1号線の江坂~千里山間延伸が挙げられた。

このうち、第1号線江坂~千里山間について大阪市は、市域外であり大阪府の補助が得られないこと、市民の理解が得られるかという懸念、建設後の莫大な赤字、御堂筋線のさらなる容量逼迫などを理由に着工には消極的だった。だが、日本万国博覧会の千里丘陵での開催が1965年に決定し、複数のアクセス手段の確保が必要となり、千里線と第1号線がその対象となったことから、緊急に整備すべき路線となった。

大阪市営地下鉄第6号線

第6号線のルートは計画当初、大阪市・南海電気鉄道・西急でそれぞれ計画があり、軌間や架線電圧などの相違点が多く、収拾がつかない状態だったが、1965年8月12日に近畿陸運局から軌間は標準軌とする裁定が下り、第6号線は大阪市が建設して西急と相互直通運転を実施することとなった。

1969年12月6日の開業までの間に、大阪市との度重なる協議があった。大阪市は天神橋筋六丁目駅を設定し、そこから西急本線に入り千里線および本線の高槻まで乗り入れる計画を示した。これに対し西急は、梅田~淡路間は千里線と共用しており線路容量が逼迫していること、営業を維持しながらの天神橋駅の改修は困難とこれを拒否、十三線淡路~十三間と柴島浄水場南西にある東海道本線旧線の廃線敷を利用して千里線にのみ乗り入れるように要求している。

この西急の提案に対し、迂回ルートでは建設費が高騰することを理由に再考を要求するものの、西急は淡路駅での平面交差は運行に支障をきたすこと、立体交差化の場合は駅周辺の用地確保が困難であり、運行させながらの高架化は工事が長期化し費用がかさむとして難色を示した。

協議は平行線であったが、アクセス手段の早期完成を各所から要請されたこともあり、本線天神橋駅の上部に十三線と第6号線用のホーム階を新設し、そこで接続することとされた。西急は十三線南方駅を東に移設し新淀川橋梁を新設して天神橋駅へ至る路線を新設、後に十三線と新設線は千里線に編入され、旧南方駅~十三駅間は廃線となっている。なお、新淀川橋梁の架橋を最優先としたため、免許を取得していた北千里~萱野間をはじめとした新規路線の建設計画については全て凍結することとなった。1969年12月6日に第6号線の天神橋~動物園前間が開業、万博開催期間中に動物園前~北千里間と三宮~北千里間で「エキスポ準急」が運行され、多くの来場客を会場へ輸送している。

北大阪急行電鉄設立

1号線江坂~千里山間延伸については建設主体が不詳の状態であり、大阪市の他に西急にも建設主体となるよう打診があった。しかし、万博へのアクセス手段として選定されている千里線の線形改良や第6号線関連の事業を優先させたいこと、新幹線から会場までのアクセスは御堂筋線を延伸させて会場まで直通させる方が乗換え等の煩わしさが無く最善であること、車両規格が異なるため大阪市側に一任したいなどの理由で、当初消極的な態度を示していた。

その後、財団法人日本万国博覧会協会と大阪府は、大阪市と西急に御堂筋線延伸計画の提示を強く要求、建設費を安く抑えられる西急の試案が採用され、路線も西急主導で建設されることとなった。

1967年12月11日に建設用の子会社として大阪府・大阪市・関西電力・西急などによる北大阪急行電鉄(以下北急)が設立され、1970年2月24日に本線江坂~千里中央(仮駅)と会場線千里中央(仮駅)~万国博中央口間が開業した。開催終了に伴い、同年9月14日に会場線千里中央~万国博中央口間が廃止されたが、この時の路線の撤去費用は中国自動車道建設のために国が負担することとなり、建設費も万博開催期間中に償却出来たことから、当初の懸念は払拭された。

商号変更

西急の1970年代は、永源寺ダム建設に伴う新線への付け替えと新石榑トンネルの建設をはじめ、輸送力増強や運転保安の向上に引き続き取り組み、阪神間で最後まで残っていた住吉川橋梁~芦屋川橋梁間の築堤を高架橋方式に変更していくなど、企業体質強化に努めていた時期である。

1960年からの10年間でレジャー・不動産・旅行等の各付帯事業でも様々な発展を遂げた西急は、鉄道事業を主軸とした総合サービス企業への変革の時期を迎えていた。1972年6月28日に新京阪鉄道設立から50周年を迎えることから、イメージチェンジの節目にふさわしいと考え、同年4月1日に西日本急行電気鉄道から西日本急行に商号変更している。「電気鉄道」の名称を外し、鉄道専業から多角経営への姿勢を明確にするのが狙いだった。

この商号変更にあわせて、ブランドの確立と強化に向けた動きがあった。西急発足時から略称として浸透していた“西急”の名称を公式略称として制定したのをはじめ、鉄道車両の側面に掲出されているエンブレムについての明文化、普通車で用いられいるミッドナイトブルーの塗色をイメージカラーに制定している。

当時はコーポレート・アイデンティティの概念が社会に浸透していなかったが、企業文化の構築と内部統一を行うために実施されている。特に内部統一については、西急設立の経緯から旧会社の路線区間ごとに組織の風土が違う部分があり問題視されていた事が一因である。

運輸設備の変革

1965年には千里線に自動列車停止装置(ATS)および列車運行管理システムが導入され、1970年の万博開催までに全線でATSの設置が完了した。

鉄道線路のうち本線については、沿線の人口増加や自動車交通の発達に起因する交通渋滞の緩和と踏切事故の解消を目的に、沿線自治体との協力のもと1970年代初めから連続立体交差事業が開始している。あわせて、沿線の付加価値を高めていくため、高架下空間の有効利用を推進していくこととなった。特に京阪神間の平面交差解消は「開かずの踏切」により道路交通に支障をきたしていることから急務となっていた。

駅設備については、1972年から10カ年計画で近代化整備が進められていくこととなった。全ての駅に自動券売機が導入されたほか、1972年には千里線全駅で定期・普通乗車券共用の自動改札機が設置されるなど、駅業務の機械化による省力化・効率化が進められていく。翌1973年には梅田駅で定期券発行機を導入、順次主要駅に設置され、発券業務の集約化が図られた。自動券売機と自動改札機は1980年までに鋼索線を除く全ての駅に導入されている。また、日本万国博覧会でのサインシステム導入実績を受けて、改称を機に駅案内表示類のデザインが見直されることとなり、全駅で展開されている。

駅舎については、木造駅舎の建て替え工事が始まり、同時に駅周辺の改修工事が進められていくこととなった。主要駅では小規模な駅ビルが建築されているが、商業施設などを入居させることで駅利用客の利便性を高めることが狙いである。また、将来の旅客需要増加を見込んでホームの8両編成対応工事が開始されている。

1973年には特急券のオンライン化が行われたことで駅端末での迅速な発券が可能となり、特急券発売駅も増加している。特急券の発売については、後に自動券売機が導入されたことでより利便性が向上することとなった。

車両については、1973年秋に発生した第一次オイルショックを機に省エネルギー・省資源・省コストに代表される合理化が推進されていく。西急でも車両技術や電子技術の進歩を反映させ、省エネルギー化を目的に次期新型車両の模索を開始し、その実用試験系列として9010系が製造され、1975年から1985年にかけてさまざまな試験が実施されている。

新石榑トンネルの開通

1963年始めから永源寺ダムの建設工事が開始された。これにより、永源寺~萱尾トンネル間が水没することから、国や滋賀県との度重なる協議のもと、愛知川右岸に付け替え用の新線が建設されることとなった。

1964年10月1日の東海道新幹線開業によって名神特急は大打撃を受けたが、1960年代に入り工業団地が形成されつつある湖東地域と中京圏との地域間輸送の需要は増加の一途をたどっていることから、この新線への付け替えによって所要時間の短縮が見込まれ、旅客需要に対応できることとなった。しかし、戦前に開通を急いだために単線のままだった石榑トンネルが支障となっていた。

新線付け替え工事にあわせ、石榑トンネルに並行する形で、1965年から単線トンネルで新石榑トンネルの建設が開始された。掘削技術の進歩もあり石榑トンネルのおよそ半分の工期で完成し、1969年10月1日のダイヤ改正から新石榑トンネルの運用が開始された。

桜通線相互直通運転への動き

1972年3月1日の都市交通審議会答申第14号において、「名古屋圏における旅客輸送力の整備増強に関する基本的計画について」のうち、1985年を目標として都市交通の主要幹線として整備すべき路線のひとつに名古屋市高速度鉄道第6号線(以下桜通線)が加えられた。これは、都市を貫通し住宅地として開発の著しい西部および東南部を結ぶ路線であり、ラッシュ時の乗車率が200%を超える東山線のバイパス路線としての性格も有することとなった。

この答申における経由地は、七宝・稲葉地・中村公園・名古屋・桜通本町・高岳・今池・御器所・新瑞橋・鶴里・鳴海・豊明の計画としており、工事施工の際は可能な限り相互直通運転を図るようにとの条件が盛り込まれた。このうち七宝~名古屋間は西急が既に路線を有しており、相互直通運転が実現すれば、名古屋市としても特に人口増加の著しい南東部の建設に注力できると考え、相互乗り入れ協定締結に向けた協議が始められた。

西急としても決して悪い話ではなく、協議は順調に進んでいった。その後基本協定が締結され、軌間は1,435mm・架空線直流1,500V・車両連結面間20,000mmという西急の規格が採用されることになった。ただし、車庫および検修施設の用地確保は西急が融通することとなった。

相互直通運転に向け最大の問題の一つは名古屋駅であった。当初は西急名古屋駅を地下二層構造として国鉄名古屋駅を横断する計画だったが、既存の各地下線および地下街への干渉など建設が非常に困難であることが判明した。西急名古屋駅の現有プラットホームの深度8.5mに対して、桜通線は国鉄名古屋駅・地下街・共同溝の下を通過する関係から深度20m前後となることが想定された。本線からの勾配も考慮した結果、西急中村駅での分岐とし、そこから新線を建設して相応の深度で国鉄名古屋駅と交差する計画で桜通線名古屋駅が設置されることとなった。

これにより「西急名古屋駅を発着する列車が激減して閑散としてしまう」との懸念が当初からあったが、通過駅化が不可能である以上、本数の減少は不可避なため、駅施設の有効活用に向けた検討が進められていくこととなった。かくして、桜通線は1989年9月10日に中村~今池間が開業、同日から西急本線七宝~今池間での相互直通運転が開始されている。

半導体の技術革新とともに

1980年代に入り、半導体産業とマイクロコンピュータの発達によって小型コンピュータの価格が低下したことにより、コンピュータによる業務の効率化が促進されていく。1980年3月から4月にかけて、まず千里線で列車運行管理システム(PTC)が導入され、翌1981年3月から4月にかけて全線で稼働が開始した。乗務員および車両の運用も一括管理され、業務の大幅な合理化に貢献している。あわせてPTCと連動した自動案内放送装置が梅田駅に導入され、実用試験が始まっている。

主要駅では1985年12月1日からビデオテックス情報端末「テレスポット」がサービスを開始、特急列車の指定席予約状況をはじめ宿泊施設や観光情報などを提供していた。インターネットの普及など時代の流れにより端末は変化していったが、この頃からネットワークによる情報提供が開始されていた。

運輸事業における変革

1986年、鉄道事業では、従来の抵抗制御の発展型ともいえる界磁添加励磁制御を採用した3000系電車が登場、省エネルギー化が図られ、従来の電車へも展開されることとなった。また同年、桜通線相互直通運転向け新型車両としてVVVFインバータ制御を採用した8000系先行量産車が登場、八日市以東での試運転が開始されている。

バス事業でも名古屋~飯田線の開設を皮切りに高速バスの運行を開始、京阪神発着路線も順次開設されていく。

乗車券についても変化があり、1987年4月1日に、特急券の購入限定ながら金額式プリペイドカードと特急回数券カードの発売が開始された。本来であれば、乗車券の自動券売機からプリペイドカード対応とするところではあったが、全線への展開となると大規模な交換が必要になるため、まず更新および新設が必要となった特急券券売機に先行導入された。同年10月1日に各駅に1台プリペイドカード対応乗車券自動券売機の設置が完了し、本格的な運用が開始された。

バブル景気と西急

1985年9月22日のプラザ合意以降景気が回復し、日本はいわゆるバブル景気を迎えた。戦後の災禍と資金難を経験していた西急は、1980年代後半からの株や土地への投機熱に乗じて不採算資産を売却することで将来に備えた。休車として留置されていた吊掛駆動車が一掃されたのもこの時期である。やがて1990年代に入りバブル景気は終焉を迎えた。

鉄道事業では、駅設備の更新・連続立体交差事業・相互直通運転延伸・新型車両投入などを実施し、業務の合理化および効率化を推進、企業体質強化に努めている。駅設備については、1991年9月1日にLED式案内表示装置が梅田駅に初めて設置されたのを皮切りに、案内表示装置と自動放送装置の更新と、サインシステムの見直しが行われている。プリペイドカードおよび高額紙幣対応自動券売機の設置は、1991年末に全駅で設置が完了している。連続立体交差事業は京阪間の残存区間に加え湖南地域でも開始され、従来どおり高架下用地については有効活用するため賃貸物件として貸し出している。相互直通運転については、1993年3月4日に堺筋線動物園前~天下茶屋間が開業、相互直通運転区間が天下茶屋まで延伸された。あわせて、南海電気鉄道との連絡運輸が開始されている。1994年3月30日には、桜通線今池~野並間が開業したことにより相互直通運転区間が野並まで延伸され、西急側でも七宝から佐屋まで延伸されている。新型車両については、1992年に堺筋線直通対応のVVVFインバータ制御普通車7000系が登場、本系列ではLED式車内案内表示装置と自動放送装置を新たに装備している。

1990年代前半はバブル崩壊の影響を最小限にするために努力しつつ、各種業務において新技術を導入していき省力化および効率化が推進された。西急設立50周年を迎えた1993年4月1日にコーポレートアイデンティティを導入、「伝統と挑戦」「未来への飛翔」というブランドステートメントのもと、沿線や社会の発展に更に貢献し成長を目指していくことを表明している。

そのさなか、1995年1月17日の朝を迎える。

阪神・淡路大震災

1995年1月17日5時46分、明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生、阪神間に未曾有の被害をもたらした。地震発生直後に八日市以西で運転を中止、被害状況の確認が開始された。桂以東は当日夕方に運転を再開、翌1月18日には西宮以東で運転を再開している。

三宮~西宮間における、甚大な鉄道設備の被害は以下の通りである。なお、電路・信号保安・停車場など各種設備の被災状況や、鉄道設備についても実際の被害箇所は膨大であるが、詳細は各種文献を参照されたい。

  • 三宮駅構内での脱線による車両損壊および損傷
  • 岩屋駅東方の土留擁壁の損壊による盛土流失
  • 第ニ阪神国道陸橋の損傷
  • 住吉川橋梁の落橋
  • 芦屋川橋梁の損傷
  • 住吉川橋梁~夙川橋梁間における高架橋崩壊
  • 本山車庫の被災

車両については、地下線側壁・鉄柱・ホームへの衝突、転倒や転落、火災による焼失により、全壊21両と半壊および損傷44両を数えた。三宮駅構内では側壁およびホームに接触して損傷の激しい車両を現地解体している。 地下線については、下り線は列車の運行に支障がない事が判明し、三宮駅構内の残存普通車で6両1編成を組成、5000系特急車は損害軽微で走行可能となったことから予備として存置し、2月1日から三宮~岩屋間が下り線の単線折り返しで運転を再開した。

2月11日には阪神が梅田から御影まで復旧し、2月13日には阪急神戸本線の王子公園~御影間が運転を再開したことにより、各社線への乗り換えが必要ながら、再び阪神間が鉄道でつながることとなった。西急も第二阪神国道陸橋~御影間については橋脚の損壊でとどまっていたことから、一日も早い運転再開が望まれていた。 3月1日に三宮~御影間の上下線で運転を再開、阪神との振替輸送が開始されている。残る御影~西宮間については沿線住民の協力のもと昼夜を問わず連日数千人単位で復旧工事が進められ、7月1日に全線での運転が再開された。 しかし、JR神戸線の運転再開は4月1日で西急よりも3ヶ月早く、その間に相当数の定期券旅客が流失してしまっている。阪神間の乗降客数は伸び悩む事態となったが、どうすることもできず致し方がなかったという。

震災を乗り越え新世紀へ

阪神・淡路大震災を乗り越えた西急は、1995年10月1日に時差回数券と土休日割引回数券の回数券カード発売を開始、1996年3月20日には子会社の北急とともに周辺社局と共同でストアードフェアシステム(以下スルッとKANSAI)を導入している。

当初スルッとKANSAIへの対応時期は未定とされていたが、対JRの協調体制というよりは、大阪市交通局との連絡運輸の便宜を図ることを目的として早期導入が決定されている。また、導入当初は対応区間が大津以西だったが、順次自動改札機を更新することにより、1997年10月1日には対応区間が八日市以西に拡大された。中京圏でも同様の動きがあり、1998年5月6日には湖東線と八日市以東で名古屋市交通局とのストアードフェアシステム共通利用が開始されている。

1990年代後半から社会でインターネットが普及し始めたことから、1996年10月1日にはインターネットに公式ホームページが開設された。1999年4月1日には、同年2月の携帯電話インターネット接続サービスの運用開始を受けて、モバイル端末対応ホームページおよび特急券インターネット予約サービスの運用を開始している。社内ネットワークの構築とPTCの更新も実施されるなど、1990年代後半は情報通信技術が急速に進化し普及していく、情報化時代の幕開けとなった。

新世紀を前にし、京阪神間のほとんどの区間で立体交差事業が完了したことにより、踏切による交通渋滞や築堤による地域分断の解消などの効果が得られることとなった。また、従来より推進していた高架下土地の賃貸により、副次的な収益源となった。

バリアフリーへの対応と新型車両ラッシュ

鉄道事業においては、2000年11月15日に施行された通称「交通バリアフリー法」に基づき、鉄道車両および駅構内への車椅子およびオストメイト対応トイレの設置、鉄道車両への車椅子スペースや案内表示装置などの設置、駅構内へのエレベータ・エスカレータ・スロープなど段差対策の各種設備の設置、運賃表や案内板への展示表示と音声案内、プラットホームおよび通路などへの点字ブロックの整備などが推進されていく。また、2005年頃に「路線記号+数字」による初代駅ナンバリングが導入されている。

車両の動向については、1962年に登場した2000系列が車齢40年を迎えることから、置き換えを考慮する時期に入っており、新たな標準車両の模索が始められた。はじめに、2000年に新製特急車10000系が登場、2001年には7000系および8000系の発展形として7300系が営業運転を開始し、高経年車両の置き換えが開始された。その後、2003年にはステンレス車両の長期実用試験として9020系が登場、ユニットブレーキや全電気ブレーキなどの新技術が装備されている。

ICカードの導入

2001年5月15日、JR西日本が定期券およびストアードフェアシステムで使用している磁気カードの非接触タイプICカード(以下ICOCA)化に向け検討することを発表、同年7月4日にはスルッとKANSAI協議会が2003年度以降の非接触タイプICカード(以下PiTaPa)導入を発表した。JR西日本の発表では、PiTaPaとの相互利用に向けた協議を進めていること、ICカードの規格も共通していることから、西急では相互利用開始の時点での同時導入を決定した。

早期の導入が見送られた主な理由として、

  • 自動改札機等の機器更新の間隔から尚早であること
  • 路線が中京圏にまで及ぶことについて協議が必要となったこと
  • 当時大津駅以東で無人駅が存在しており、ICカード対応エリア外で乗降車した場合の手続きにより遅延が発生する可能性を考慮し、全駅の駅設備を整備する必要があったこと

等があげられている。

しかし、バリアフリーへの即時対応などの観点から、西急では再び全駅を有人駅とする方針となり、駅務におけるICカードの取り扱いに関する懸念は解消された。導入に向けた各種整備が進められ、2006年2月1日に全線でICOCAとPiTaPaの導入を開始、同時にPiTaPa定期券のサービスも開始された。2009年11月にスルッとKANSAI協議会とJR西日本で「ICカード乗車券を活用した連携サービスについて」合意されると、「多様化の実現」を名目にかなり早期の段階からICOCAの販売開始に向け動き出し、2012年1月からICOCA(定期券を含む)の販売が開始されている。

次の100年へ向かって

2010年代に入り、鉄道車両において大きな出来事があった。これまでは運輸省63形由来の車両寸法で鉄道車両を製造していたが、2003年9月8日に日本鉄道車輌工業会により制定された「通勤・近郊電車の標準仕様ガイドライン」に則り、7300系列以降の増備車両については、大量生産によるコストダウンが見込める当該ガイドラインに従って実施されることとなった。

2007年頃から次期新系列増備に向けた模索の動きがあり、東京都区内でJR東日本E233系をはじめとする鉄道車両の視察を行った上で新系列の概要がまとめられた。その後、2010年初めに1000系(2代)先行量産車8両1編成が導入されている。

駅設備についても、情報通信技術などの進化とともに、時代に応じたサービスが提供されることとなった。 2010年初めに梅田駅において、大画面化と低価格化が進んだ液晶ディスプレイを使用した案内表示装置およびデジタルサイネージが導入されている。案内表示装置については2015年までに全駅に設置され、デジタルサイネージについては乗降客数の多い駅に設置されている。また、通信設備の増強として、全線でのWiMAX基地局整備が実施された。これにより、駅での高速モバイル通信・デジタルサイネージへの配信・駅構内の業務データ通信・沿線での工事作業の進捗や異常発生時などの映像伝送などに活用されていく。

列車内および駅構内では、無線LANのアクセスポイントも順次設置され、公衆無線LANによるインターネット接続サービスの利用が可能となった。

多言語対応に向けた動き

2013年4月1日、ビザ緩和などにより訪日観光客の増加が見込まれることから、案内表示類の見直しを目的としたユニバーサルデザイン推進計画を策定した。駅構内の多言語表示・駅での外国語放送の追加と自動放送化・外国語対応可能な案内所の設置・ウェブサイトの多言語対応化・公衆無線LANの再整備が行われている。特に外国人旅行客向けには企画乗車券の発売など、誘致に向けた様々な取り組みが実施されている。

2014年4月1日には、計画の一環として「駅ナンバリングとバス系統番号のシームレス化」が実施された。駅ナンバリングが従来の「路線記号+数字」から、大手私鉄数社と同形式の「英字2文字+数字」を基本とするナンバリングに再編され、並行して自社路線バスの系統番号も駅ナンバリングに合わせたものに再編、バス停にもナンバリングが付与されている。 2016年2月1日から、スマートフォンやタブレット端末などの普及により、案内所に加え駅窓口でも多言語音声翻訳アプリによる外国語対応が開始されている。ほぼ同時期に、列車内でも外国語放送の追加および自動放送化に向けた改造工事が開始されている。2017年度には車掌携帯端末もスマートフォン型ハンディターミナルに変更され、同端末による自動放送の試験運用が先行して実施されている。2019年3月末頃に全編成の車内放送設備改造工事が完了、全ての列車の案内放送が多言語・自動放送化された。

試練を乗り越えて

2020年1月になり、新型コロナウイルスによる感染症が徐々に拡大、2月に入り企業でも感染拡大を防止するためテレワークや時差出勤を呼びかける動きが広がっていく。感染者の世界的な増加はとどまるところを知らず、国内でもイベントの中止・観光施設の臨時休業・教育機関の臨時休校などが決定され、渡航の自粛や入国制限も開始されている。3月10日には政府が「歴史的緊急事態」に指定している。

翌4月3日には入国拒否対象地域の拡大、4月7日には東京・神奈川・埼玉・千葉・大阪・兵庫・福岡の7都府県に緊急事態宣言が発出され、16日には全国が対象となるなど未曾有の事態となった。勤務形態の変化や休校措置などによる定期旅客の減少が見られたが、インバウンドの消滅および緊急事態宣言発出による外出自粛要請等の措置により定期外旅客は30%以上減少し、運輸事業は大打撃を受けた。また、社会活動の停滞により運輸事業以外にも観光・小売・不動産・流通・サービスの全事業で減収減益となった。その中でも収益増につなげようと、テレワークや在宅勤務向けのコワーキングスペースの開設をはじめ、ホテルのデイユース利用促進、小売事業と流通事業の連携による個人宅配サービス開始など、新たな取り組みが展開された。

運輸事業での減便措置や臨時ダイヤでの運行は実施されなかったが、宣言期間中は相互乗り入れ区間での運行本数の調整と全日土休日ダイヤでの運行が実施された。2020年は車庫公開等のイベントもオンラインでの開催となり、大晦日の終夜運転も中止されるなど「寂しい一年」となった。

2021年に入ってからも、沿線の2府4県では度々緊急事態宣言およびまん延防止等重点措置が発出されたことで、各事業とも前年度よりも減収減益となり苦境から抜け出せずにいた。10月1日にようやく沿線各府県での緊急事態宣言が解除されたことで、運輸事業でも利用者数が回復しつつあった。また、その他各事業でも回復の傾向が見られた。とはいえ、2021年度第三4半期も2019年度同期と比較して、運輸事業では定期および定期外旅客は25%前後の減少となっており、回復には程遠い状況となっている。様々な制限はあるものの、11月6日に2年ぶりに車庫公開が開催(ただし会場への来場は抽選制)され、徐々にではあるが主催イベントが再開している。また、大晦日の終夜運転も2年ぶりに復活している。

2022年に入り、千里線の関西大学前駅に西急で初めて可動式ホーム柵が設置された。設置の経緯は、相互直通運転を実施しているOsaka Metro堺筋線において、2022年度中に全駅で可動式ホーム柵の設置を計画しており、西急でもOsaka Metroに合わせて千里線の全駅に設置が決定されたことによる。運用実績を見て、本線でも乗降客数の多い駅および支線への乗り換えなどで混雑が予想される駅に設置が検討されている。だが、その整備費用は1番線あたり数億円であり、国や地方自治体による整備費用の一部補助を受けたとしても、設置は慎重にならざるをえないのが実情である。

ホームからの転落および列車との接触事故を防止を目的とした、CPラインおよび内方線付き点状ブロックについては、2022年度中に可動式ホーム柵未設置のすべての駅で設置が完了予定である。同年5月の大型連休は「3年ぶりの行動制限なし」となったことから、沿線もかつての賑やかさが戻りつつあった。5月3日から5日にかけて、事前応募制ではあったが3年ぶりに正雀車庫と八日市車庫において車庫公開イベントが開催されている。

そして2022年6月28日、西急の始まりである新京阪鉄道が設立100周年を迎えた。