西日本急行は、1943年4月1日に陸上交通事業調整法を根拠とした新京阪鉄道による名古屋急行電気鉄道の吸収合併と、阪神電気鉄道からの路線譲受により発足した経緯から、各鉄道会社ごとに個別に記述する。また、各鉄道会社における鉄道路線の成立過程等については別に記す。
新京阪鉄道
西日本急行の母体である新京阪鉄道は、京阪電気鉄道が出願した淀川西岸支線の建設を目的とした別会社として、1922年6月28日に設立された。当初、大阪側起点は梅田に京阪との総合駅を設置予定だったが、城東線払下問題や高架工事延期等の理由により、起点決定に難航していた。そのため、京阪は淡路~天神橋間の免許を保有していた北大阪電気鉄道に着目し、同社を買収して路線と免許を新京阪へ譲渡させることで、天神橋を当面の大阪側起点とする計画となった。かくして1923年4月1日、新京阪は北大阪電気鉄道の鉄道事業を譲受し、天神橋~四条大宮間の建設が開始される運びとなった。
1925年10月15日に天神橋~淡路間が開業、1928年1月16日の淡路~高槻町間開業時には架線電圧を直流1,500Vに昇圧し、東洋一の電車といわれたP-6ことデイ100形電車が投入されている。同年11月1日に高槻町~京都西院間、同11月9日に桂~嵐山間が開業している。
1928年8月7日には天神橋~角田町間の免許を取得しており、梅田進出の機会を窺うこととなった。また、京都市内への延伸については、後述する名古屋急行電気鉄道の計画の進捗を待つこととなった。
阪神電気鉄道 岩屋尼崎間増設線
阪神電気鉄道(以下阪神)では、阪神本線の高速化と輸送力増強および競合電鉄会社への対抗手段として、1910年1月20日と26日に尼崎~伝法町~西野田兼平町間と神戸市布引町~尼崎間の軌道敷設特許を申請している。同年8月15日に神戸市布引町~尼崎間は却下されたが、1911年8月25日に尼崎~伝法町~西野田兼平町間の軌道敷設特許を取得した。大阪市電の計画線と重複する区間を短縮した上で、伝法線として1924年1月20日に大物~伝法間が開業、同年8月1日に伝法~千鳥橋間が開業、1928年12月28日に大物~尼崎間が開業している。伝法線の梅田延伸については幾度か計画の変更があったが、1929年4月1日に千鳥橋~出入橋間が開業、出入橋~梅田間は本線と合流予定であり大阪駅前土地区画整理事業の進捗を待つ状態となった。
神戸から尼崎の区間については、1919年11月19日に西灘村岩屋~尼崎市別所村間19.0kmの軌道敷設特許を取得したものの、様々な事情により工事が遅れていた。1930年7月10日に岩屋~西宮間の工事が完了、1934年5月2日に西宮~尼崎間が開業し、西宮~尼崎~姫島~出入橋間での営業運転を開始している。岩屋~西宮間の開業については、1935年6月20日の三宮~岩屋間の完成を待つこととなった。
新京阪と阪神の相互直通運転計画
阪神には開業直後から京都進出構想があり、阪神は1913年3月に北大阪線本庄~城北~吹田~茨木~高槻~大山崎~向日~桂~壬生に至る淀川西岸にルートをとった京都延長線の特許を申請しているが、1914年7月に却下されている。それとは別に、京阪および新京阪との数度にわたる接触があった。
相互直通運転計画が大きく前進したのは、新京阪稗島線の免許譲受だった。1923年、新京阪が十三~阪神稗島(姫島)間3.2kmの免許を取得したが、大阪市の都市計画事業に阻まれ、新京阪は自力での建設を断念した。そのため、1926年4月に京阪は当該免許の譲渡案が議決されている。その後、同年12月11日に阪神と新京阪の間で当該区間の免許権譲渡契約が締結され、同日淡路~十三~姫島間での相互乗り入れ計画が、翌12日には神戸~京都間での直通運転計画が締結している。1928年2月に鉄道省から認可され、2月12日に再び神戸~京都間の相互直通運転の契約が結ばれている。だが、稗島線を経由しての相互直通運転ではなく、「大阪市と協議し梅田で接続する事が妥当」との意見が両社で多数を占めており、両社の梅田延伸計画が一気に進展したのである。
新京阪の天神橋~梅田間は1935年3月から、阪神の梅田延伸区間は1936年11月17日から工事が開始され、両社の延伸区間は1938年3月21日に開業、阪神増設線は架線電圧を直流1,500Vに昇圧し、準拠法が地方鉄道法による地方鉄道に変更されている。
名古屋急行電気鉄道
京阪神で高速新線が建設されていた1928年6月12日、京阪社長太田光凞を発起人総代とする名古屋急行電気鉄道(以下名急)が、大津市膳所~名古屋市南区尾頭(金山)間の電気鉄道の免許を申請、1929年6月29日、当時の小川平吉鉄道相の免許乱発により地方鉄道敷設免許を取得した。
当初は京阪の主導で敷設する予定だったが、新京阪の建設のために多額の借金を抱えていた実情もあり、名古屋までの建設はおろか母体である京阪の経営自体も危うい状況だった。だが、名急設立には各方面から大いに期待が寄せられており、競願していた私鉄二社の発起人のほか、いわゆる阪神財閥や近江商人系企業も出資者に加わることとなった。京阪の影響力を減少させるために、名急だけではなく新京阪への出資の動きもあったことから持株比率が変化し、京阪は借金返済の目処がついたものの主導力を喪失する事態となった。かくして、1930年9月15日、名古屋急行電気鉄道は設立された。
以下は、免許申請時における発起人の一覧である。
- 太田光凞(京阪電気鉄道社長)
- 湯淺七佐衛門(新京阪鐵道監査役、湯淺七佐衛門商店)
- 馬場齊吉(京阪電気鉄道取締役、高野山電気鉄道取締役)
- 濱崎健吉(京阪電気鉄道監査役)
- 渡邊嘉一(京阪電気鉄道取締役、東洋電機製造・京阪土地社長、大同電力監査役)
- 井上周(新京阪鉄道・阪神急行電鉄取締役)
- 大原孫三郎(京阪電気鉄道取締役、大原財閥)
- 津村紀陵(京阪電気鉄道監査役、和歌山倉庫銀行頭取)
- 大野盛郁(京都市参与、京都市水利水道電気軌道各事務所長)
- 野呂靜(東濃電化社長)
- 有田邦敬(大阪市助役)
- 神野金之助(三河水力電気社長、名古屋鉄道・遠州電気鉄道・高野山電気鉄道取締役)
- 跡田直一(旧名古屋鉄道常務取締役、美濃電気軌道取締役)
- 兼松凞(濃飛電気・長良川電化社長・東美鉄道取締役)
- 藍川清成(愛知電気鉄道・碧海電気鉄道社長、大同土地・名古屋土地取締役、東邦電力法律顧問)
- 富田重助(旧名古屋鉄道社長)
- 伊藤伝七(三岐鉄道社長)
- 志水正太郎(愛知電気鉄道・碧海電気鉄道取締役)
- 田代榮重(愛知電気鉄道・鳴海土地・碧海電気鉄道取締役)
- 村瀨末一(大同電力取締役兼支配人)
- 增田次郞(昭和電力社長、大同電力常務取締役・2代目社長)
- 林安繁(宇治川電気社長)
- 影山銑三郎(宇治川電気常務取締役・副社長)
- 山崎主計(宇治川電気取締役兼支配人)
- 井上秀尭(会社員)
- 松島寛三郎(新京阪鉄道取締役、新阪神土地監査役)
- 福澤桃介(大同電力社長)
馬場起点~永源寺間は、琵琶湖鉄道汽船の鉄道部門を譲受したことによる経由地の変更などがあったが、1932年7月10日に着工し、1935年3月1日に馬場起点~永源寺間が開業、先に開業した新京阪大津延伸線を経由して相互直通運転も開始され、天神橋~永源寺間で超特急の運行が開始された。
敷設工事は名古屋側からも実施された。1929年9月17日に永源寺~大津起点102km(現在の則武本通3交差点付近)で工事施工認可を取得し、木曽三川への架橋や滋賀県神崎郡山上村から三重県員弁郡石榑村に至る石榑トンネル掘削工事などの難工事を克服して、1938年12月23日に名急は大津~名古屋仮駅が開業、名阪間が一つの線路で結ばれた。1939年1月1日に梅田~名古屋間で運行を開始した超特急は、時局柄参詣輸送で満員だったという。同年3月21日、念願の梅田総合駅が開業したことで、三宮~名古屋間の相互直通運転が開始されている。
京都市内の路線
新京阪と名急の連絡線は、当初の計画では京都市内を経由せず、新京阪が免許を保有していた西向日町駅から山科駅に至る路線を建設し、山科駅からは京阪が計画中だった六地蔵線に乗り入れて大津市馬場に至る計画だった。一方の新京阪は、1926年9月27日に京都市の四条通拡幅工事に対して報償金300万円を支払うことにより、京都市議会には秘密裡で、京都市長と西院~四条河原町間の地下線敷設契約を締結していた。名急と新京阪は、これらの計画を一本化し、京都市内の地下線を延長して山科に至る計画に変更しようとしていた。
しかし、新京阪が計画していた四条通直下での貫通の場合、八坂神社や大谷祖廟の境内の通過は容易ではないこと、市の中心部であることから用地買収の費用が嵩むこと、京都市電が既に四条通を走行していること、京阪京津線の処理等を勘案の上、再度連絡線の経路を検討することとなった。
五条通であれば市中心部に近い位置を通過でき、大きく線形を変化させること無く東海道本線の旧線路敷に接続できることから、再度京都市と協議することとなった。四条通の地下線契約露見による市議会での混乱はあったが、京都市街を横断する市電の代替として便宜を図ること、蹴上~山科間の京津国道拡幅工事の負担を条件として市議会で正式に了承された。
その後、1929年8月2日に西京極~五条通~髭茶屋追分間の地方鉄道敷設免許を取得し、1933年8月31日に西京極~大津市馬場起点が開業、名急との連絡が可能となった。この新京阪大津延伸線について、建設にかかる資金調達の社債購入および借入金の保証については、名急の出資者のほか京都財界も関与しており、このことが京阪と新京阪との合併決議が否決される一因となったのである。
「西急」の発足
1943年4月1日、新京阪と名急は「高速かつ高規格にして四大都市間の貨客輸送においては省線の代行に適当と認む」との事由により、陸上交通事業調整法を根拠に新京阪が名急を吸収合併し、西日本急行電気鉄道(以下旧西急)と商号変更した。
新京阪鉄道からの商号変更に際し、吸収合併する名古屋急行電気鉄道の社名の一部である「急行電気鉄道」を残すこととなった。冠する名称については、鉄道路線の走行地域から勘案して「近畿」「名神」の案が出された(「関西」については当時既に関西急行電鉄が存在していたため、予め除外されている)。「近畿」については、走行地域が中京に及んでいることから却下され、「名神」については、当時岡山への西進構想が残っていたことから、前2案同様に却下されている。結果として、前述した西進構想の趣意を汲んで「西日本」を冠する決定が下されたのである。このとき、1942年9月22日に発足している西日本鉄道に対して商号に関する問い合わせをしており、営業地域が離れているものの、両社の混同を避けるために「西急」の略称を使用していくこととなった。
同年5月10日、鉄道省監督局の斡旋により、株主である宇治電興業(旧宇治川電気)の管理下にあった近江鉄道が旧西急の傘下となっている。
同年10月1日、旧西急は阪神から増設線を有償で譲受している。阪神では、本線でも輸送力増強と高速化が進められたことにより、電圧や規格が異なる増設線は建設当時の意義が既に薄れてしまっており、路線譲渡により合理化を推進したいという思いがあったようである。この他に、1942年4月13日に関急が阪神と連絡する地下鉄道建設の陳情書を提出し、阪神も関西急行電鉄との連絡運輸に期待を寄せ、実現させたいという目的があった。これにより、戦前に建設された名神間の高速新線は、旧西急によって一本化されることとなった。
西急設立時には、沿線に軍需工場が新設・転換・拡充されたことで通勤需要が激増、そのほか戦勝祈願や勤労奉仕などを含めると旅客需要は日に日に高くなっていった。乗客の激増に対応するため、クロスシートのロングシート化や乗降扉付近の座席を撤去して定員増に努めたが、車両保守部品の調達は西急設立時点で既に難化し、車両の酷使も重なって可動車両数は徐々に減少していった。1944年に入ってからは、車両故障や電力制限などにより運転本数は半減、一般の旅客輸送を制限して軍需工場への通勤輸送などを優先するようになった。このため、超特急の運行は休止されている。
鉄道路線については、1944年1月頃に嵐山線が不要不急線に指定され、資材供出の為に単線化されている。1945年7月30日には、揖斐川橋梁・長良川橋梁・木曽川橋梁が機銃掃射を受け、石榑~名古屋間で数日間運行を休止している。